概要
インド洋作戦はインドへ進出しアフリカの枢軸国軍との最終的な合流を主張する日本陸軍の提案により行われ、当初はセイロン島の占領が計画されていた。
一方で太平洋での対米戦を重視する日本海軍は反対し、最終的にセイロン島占領計画は凍結され、中途半端な作戦内容となった。
イギリス東洋艦隊司令官に赴任したジェームズ・フォウンズ・サマーヴィル大将は、艦隊をセイロン島からアッドゥ環礁の秘匿基地に移動させた。日本海軍との戦力差があり過ぎるため、交戦を狙っているように見せかけながら、実際にはそれを避ける必要があった。
日本軍は敵主力撃滅に失敗したが、戦争後期までインド洋での連合国海軍の牽制を行うことができた。また、この海戦とは別に通商破壊作戦を行い、大きな戦果を挙げている。
当初の計画の通りセイロン島占領を行っていれば、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの政治生命も終わり、ヨーロッパの戦争の流れが大きく変わっていた可能性があるが、苦戦が続くソロモン・ニューギニア方面に戦力が引き抜かれ、インド洋方面に投入される戦力は激減して行った。
日本にとって唯一の脅威であるアメリカ太平洋艦隊と無関係な作戦に主力の機動部隊を投入し、態勢を整える猶予を与えてしまったとも評価される。
その他
撃沈された空母ハーミーズ及び重巡洋艦ドーセットシャーは戦前は香港艦隊に配属されており、日本国民の間でもよく知られていた。
1928年に戦艦長門・陸奥・扶桑及び軽巡洋艦天龍指揮下の駆逐艦数十隻が香港に親善訪問した際に空母ハーミーズの乗組員との間で親善交流が行われ、写真などが残っている。