浅野長政
あさのながまさ
生涯
1547年、尾張国(愛知県)宮後城主・安田重継の子として誕生。幼名は不明。
織田信長の家臣で弓衆の叔父(母方の弟)浅野長勝に子がいなかったため養子となる。(婿養子)
※長政の妻の姉妹は高台院(おね。秀吉正室)であるとされるため秀吉とは義兄弟に当たる。
その縁もあって信長から秀吉の与力になるよう命じられ秀吉の家臣となる。
1573年、織田に城の浅井長政を倒す際に戦功をあげ秀吉が小谷城主となると120石を与えられた。
信長死後も秀吉に仕え、賤ヶ岳での合戦後は近江(滋賀)に2万石を与えられる。
1584年には京都奉公職を豊臣政権では五奉行の筆頭格となる。
東国とのかかわりも深く、秀吉が廃した大名の金銀の管理を任されていたという。
九州攻めなどでも活躍を果たして若狭国(福井県)小浜8万石の国持大名となる。
奥州仕置き(小田原戦後の東北制圧戦)では実行役となって重要な役割を果たしている。
そのあとは東国や奥州の大名の取次役として九戸政実の乱や葛西一揆に対処した。
また、成田長親といった東国の武将を与力とするが職務にに不満を持った
伊達政宗に絶縁状を送りつけられてしまう。
1592年に豊臣姓を与えられ、甲斐国(山梨)の府中約21万石を与えられる。
1599年、徳川家康暗殺の嫌疑をかけられて隠居させられる。嫡男の幸長に跡をつがせた。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康を支持し、家康の三男・秀忠の軍に従軍して中山道を進み、
幸長は東軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦で活躍した。
戦後、幸長はこの功績により紀伊国和歌山37万石へ加増転封された。
長政自身は江戸幕府の成立後は家康に近侍し、慶長10年(1605年)には江戸に移った。
慶長11年(1606年)、幸長の所領とは別に常陸国真壁5万石を隠居料として与えられた。
慶長16年(1611年)、真壁陣屋にて死去。享年65。真壁5万石は三男・長重が継いだ。
人物・逸話
・小田原合戦のさい、沼津城進軍の時、家康は案内役として家臣に橋をかけさせた。
三成は警戒をあらわにするも長政が手勢を率いて安全性を証明したという。
・同じく小田原合戦の際、秀吉は家康の城に泊まることとなった。
三成はまたも危険視したが「大納言(家康)がそのような事をするはずがない」と進言。
秀吉は長政の進言を聞き容れ入城。家康から手厚くもてなされた。
・朝鮮出兵の際、秀吉は自分も行こうとした。三成は船を出すといったが
長政は「太閤殿下は、昔と変わられましたな。狐でも憑いているのでは?」といった。
秀吉は斬ろうとするも
「私の首を落とそうとも何も変わりません。逆に殿下が渡海なされば国は乱れましょう」と諫めた。
・このうえの3つはどれも三成が関係しており仲が悪かったとされるが逆説もある。