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浅野長政の編集履歴

2017-08-29 21:21:23 バージョン

浅野長政

あさのながまさ

浅野長政とは、戦国時代の人物の一人

概要

戦国武将の一人。名前は似ているが浅井長政は別人である。

生年1547年 没年1611年 常陸(ひたちと読む。今の茨城県)真壁藩の藩主。

初名は長吉(実際にはこっちの方が使用が長く、長政は晩年(秀吉死後)に変えたものである)

官位は従四位下(じゅしいのげ)、侍従(じじゅう) 通称は弥兵衛(やへえ)


生涯

1547年、尾張国愛知県)宮後城主・安田重継の子として誕生。幼名は不明。

織田信長の家臣で弓衆の叔父(母方の弟)浅野長勝に子がいなかったため養子となる。(婿養子)

※長政の妻の姉妹は高台院(おね。秀吉正室)であるとされるため秀吉とは義兄弟に当たる。


その縁もあって信長から秀吉の与力になるよう命じられ秀吉の家臣となる。

1573年、織田に城の浅井長政を倒す際に戦功をあげ秀吉が小谷城主となると120石を与えられた。

信長死後も秀吉に仕え、賤ヶ岳での合戦後は近江(滋賀)に2万石を与えられる。

1584年には京都奉公職を豊臣政権では五奉行の筆頭格となる。

東国とのかかわりも深く、秀吉が廃した大名の金銀の管理を任されていたという。

九州攻めなどでも活躍を果たして若狭国(福井県)小浜8万石の国持大名となる。

奥州仕置き(小田原戦後の東北制圧戦)では実行役となって重要な役割を果たしている。

そのあとは東国や奥州の大名の取次役として九戸政実の乱や葛西一揆に対処した。

また、成田長親といった東国の武将を与力とするが職務にに不満を持った

伊達政宗絶縁状を送りつけられてしまう

1592年に豊臣姓を与えられ、甲斐国(山梨)の府中約21万石を与えられる。


1599年、徳川家康暗殺の嫌疑をかけられて隠居させられる。嫡男の幸長に跡をつがせた。


1600年、関ヶ原の戦いでは家康を支持し、家康の三男・秀忠の軍に従軍して中山道を進み、

幸長は東軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦で活躍した。

戦後、幸長はこの功績により紀伊国和歌山37万石へ加増転封された。

長政自身は江戸幕府の成立後は家康に近侍し、慶長10年(1605年)には江戸に移った。


慶長11年(1606年)、幸長の所領とは別に常陸国真壁5万石を隠居料として与えられた。


慶長16年(1611年)、真壁陣屋にて死去。享年65。真壁5万石は三男・長重が継いだ。


人物・逸話


小田原合戦のさい、沼津城進軍の時、家康は案内役として家臣に橋をかけさせた。

三成は警戒をあらわにするも長政が手勢を率いて安全性を証明したという。


・同じく小田原合戦の際、秀吉は家康の城に泊まることとなった。

三成はまたも危険視したが「大納言(家康)がそのような事をするはずがない」と進言。

秀吉は長政の進言を聞き容れ入城。家康から手厚くもてなされた。


朝鮮出兵の際、秀吉は自分も行こうとした。三成は船を出すといったが

長政は「太閤殿下は、昔と変わられましたな。狐でも憑いているのでは?」といった。

秀吉は斬ろうとするも

「私の首を落とそうとも何も変わりません。逆に殿下が渡海なされば国は乱れましょう」と諫めた。


・このうえの3つはどれも三成が関係しており仲が悪かったとされるが逆説もある。


また、伊達政宗との絶縁は口論ともされている。

(逆に考えれば口論でおさまった方がおかしいようなおかしくないような・・・)

子孫である浅野吉長の失敗はあったが近年にようやく決着した。約400年である・・・


関連項目

浅野長晟(ながあきら)・・・次男。のちの安芸藩主浅野家(宗家)当主。


浅野長矩・・・内匠頭。安芸藩分家赤穂藩主。曽孫に当たる人物の一人。


浅野綱長・・・浅野宗家当主。赤穂事件の際は連座にならぬよう奔走するも・・・


浅野吉長・・・綱長の子で次の当主。伊達家との絶縁関係解決を図るも失敗してしまう。


戦国武将 武士 大名 豊臣秀吉 伊達政宗

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