概要
大日本帝国陸軍の軍人で、民族的には朝鮮人でありながら、日本軍の将軍にまで上り詰めた人物である。最終階級は中将。
人物
1889年、李氏朝鮮京畿道安城の両班の家に生まれ、1905年(明治38年)の日韓保護条約締結後、大韓帝国の陸軍武官学校に入学。
1909年(明治42年)に陸軍武官学校廃止にともない、日本の中央幼年学校に国費留学し、首席で卒業した後、間もなく陸軍士官学校に進学した。
当時、陸軍士官学校には大韓帝国からの派遣留学生が何人も在籍しており、1910年(明治43年)の韓国併合に衝撃を受けて抗日・独立運動に身を投じた者も多数いたが、洪は、今決起するのは朝鮮の独立回復に繋がらず、しばらく研鑽を積み実力を養成した後戦うべきだとして級友達と路線を分かつ。
1914年(大正3年)に陸軍士官学校を卒業し、陸軍歩兵少尉に任官、第1師団第1連隊に配属された。1923年(大正12年)には陸軍大学校(35期)も卒業。
1925年(大正14年)には陸軍参謀本部に配属され戦史編纂にあたった。1929年(昭和4年)には陸軍少佐となり、1931年(昭和6年)8月に陸軍歩兵学校教官を経て、1933年(昭和8年)4月関東軍司令部に配属され、満州国軍に顧問として派遣された。
奉天軍官学校(陸軍士官学校に相当)の指導に当たったほか、軍官学校の募集対象に満州国在住の朝鮮人を含めることとし、それまで日本人・満州人・延安系朝鮮人に限られていた満州国軍将校への門戸を朝鮮人移民にも開放した。
1934年(昭和9年)に陸軍歩兵中佐となり、1936年(昭和11年)まで関東軍司令部参謀部に勤務した。
洪は、日本陸軍士官学校時代からの旧友で、中華民国の支援によって創立された大韓民国臨時政府の軍事組織『光復軍』の司令官である池青天から、臨時政府に加わったらどうかと誘われたが、朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず、今立ち上がることは良策ではないとして、旧友の招聘を断った。
だがその一方で、彼を含む抗日活動家と秘密裏に友情を保ち、その家族を自費を以て支援していた(これは一歩間違えば洪本人にも危険が及ぶ行為であった)。
洪は日本統治下における朝鮮人の立場を「イギリスにおけるアイルランド人のようなもの」と息子に説明していた。また、高宗皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を、生涯身に付けていたとも言われている。
非常に高潔な人物として知られ、敗戦後にフィリピンのマニラで行われた『マニラ軍事裁判』において、連合国軍から捕虜収容所長時代に食糧不足から捕虜に十分給養できなかった責任を問われても、洪は弁解や証言をすることを潔くないとして、自身のことついては一切抗弁しなかった。
一方で、同じく戦犯とされた日本軍の同胞への罪に関しては、積極的に弁護を買って出ていたという。
韓国国内では日本の陸士同期生などを中心にマスコミで救命運動が行われたが、結局流れを変えることはできず、戦犯者として1946年4月18日に死刑判決を受け、同年9月26日にマニラで処刑された。
辞世の歌は、「昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ」、「くよくよと思ってみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」。
しかし、彼は戦後の韓国において「民族の裏切り者」として扱われ、売国奴のレッテルを貼られ、彼の家族は迫害を受けて国を追われたという。