概要
1985年から2期那覇市議会議員を1992年から2期沖縄県議会議員を務める。
2000年から3期那覇市長を務めた後
(那覇市長の辞職は4期目の途中。なお、ここまでは自民党所属である)
[沖縄県]]知事選では基地移転の是非が争点となった事情から、基地の県内移転を認める自民党・民主党の支援は得られず、日本共産党・社会大衆党などの革新系から支持を集め、現職の仲井眞弘多を破り沖縄県知事に当選した。
2015年5月の訪中において李克強首相と会談した際に中国の船が沖縄の海への領海侵犯、密漁している事に抗議を行わなかった。
「私の持ち時間は10分。経済交流などの話だけで終わった」等と説明している。
2016年7月中国海軍のフリゲート艦が尖閣諸島近辺の海域に侵入した際は日本政府に安全確保を要請、2017年8月には中国・台湾漁船の違法操業の徹底的な取り締まりを日本政府に要請している。
「基地反対」「チャイナタウン建設構想」「三本爪竜柱建設」「チャイナ便増加」「中国人旅行客推進」等
政策の多くが中国ありきである事もあり、かなりのパンダハガーとして知られている。
「オール沖縄」なるフレーズを使っているが市長選ではまったく支持を集められず9連敗(ただし国政選挙では勝利)、翁長派はほぼ全滅で現在はオールでもなんでもなく現状「オンリー那覇」である。
「沖縄の権利が日本政府によって侵害されている」と言う一方で宜野湾市などの裁量権は「市長の権限には無い」「沖縄全体の問題だ」として裁量権を認めなかった。
当選後は安倍総理にアポなしで対談を申し込むなど突飛な行動も目立つため、悪い意味で話題を集めた。
ガン発症と死去
2018年4月にすい臓がんが発覚、入院して手術を受けるなどしていたが非常に進行の早いガンであったため間も無く肝臓にも転移、やせ衰えた姿で各方面に衝撃を与えた。
12月の任期満了も近い中ではあったが、次の知事選出馬に対しては明確な発表をしていなかった。
2018年7月27日に名護市辺野古の新基地建設に伴う埋め立ての承認撤回を表明。
2018年7月30日に容体が悪化し再入院。
2018年8月9日の夕方、側近の謝花副知事が会見を行いすでに翁長の意識が混濁状態であることを認め自身が知事の職務を一時代行することを表明するも翁長の知事辞任は否定した。しかしそれからわずかの時間しか経たない同日18時過ぎ、入院先の浦添市内の病院で死去した。享年67歳。
彼の死去を受け、公職選挙法の規定に基づき同年の9月に前倒しで知事選挙が行われることとなった。
自らの後継となる知事候補として、地元建設会社の会長と自由党幹事長の玉城デニーを指名した音声を残したと言われているが二人とも一度は知事選出馬を辞退。
支援者達は候補選びに右往左往する事態となっていたが、結局玉城が許諾することとなった。
基地政策の変遷
県議時代は普天間米軍基地の辺野古移設を推進、那覇市長時代は那覇軍港の浦添移転を推進し、当初は辺野古移設に賛成の立場であったが、県知事在任中は普天間基地の「辺野古移設」とされている一連の工事を(移転後、普天間の返還が保障されていないとする立場から)「辺野古新基地建設」として反対する立場となった。