概要
池田恒興の次男。姫路城をおおよそ現在の姿にしたことで知られる。
織田信長と豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。特に秀吉には優遇され父と兄を失ってから遺領を継ぎ、大垣城主となった(のみならず池田家の正統をも継いでおり、兄の子孫を家臣として従えている)のを皮切りに一族同然の扱いを受け、妹が豊臣秀次の正室となり将来も約束されていた。
さらには徳川家康の娘・督姫を正室としており、どう転んでも出世は間違いなしの立場にあった。そして実際に出世する。関ヶ原以降は家康について優遇され、一族で90万石という大領(しかも播磨、因幡など要地の大藩)を得、家康の娘が生んだ子の系統はずっと上級親藩の待遇だったほか近代に入ってからは子孫が内親王の降嫁を受け外戚になっている。一方で先妻の子の系統では孫の光政が徳川秀忠の外孫との婚姻で、家格を高め、光政の後継者で秀忠曾孫でもある綱政の系統が現在まで続いている。(宗家は断絶した)細川護煕の父方の祖母は2012年に死去した宗家当主池田隆政のおばにあたる。
愛刀は日本一との誉れも高き大包平。
背が低かったが自分に自信があったためからかわれてもまるで平気だったという。
督姫との結婚の際、輝政は小牧・長久手の戦いで父を討った徳川家臣・永井直勝を呼びし出し、その最期を語らせた。
その中で、直勝の知行が五千石だと知ると急に不機嫌になり「父の首はたった五千石か」と嘆いたという。これを聞いた家康は、事情があって遅れているだけだとはぐらかし、慌てて直勝の知行を加増したという。