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小早川秀包の編集履歴

2019-01-29 09:34:05 バージョン

小早川秀包

こばやかわひでかね

戦国時代・安土桃山時代の武将。

概要


永禄10年(1567年)、毛利元就の九男として生まれる。このとき元就は数えで71歳であり、44歳年長の長兄毛利隆元は生まれる前に亡くなっていた。

当初は備後の国人大田氏の後継となり大田元綱(おおたもとつな)と名乗るが、天正7年(1579年)に子供のいなかった兄・小早川隆景の養子となり小早川元総(こばやかわもとふさ)と名乗った。

天正11年(1583年)、人質として甥の吉川広家と共に大坂の羽柴秀吉の下に送られた際に「秀」と「藤」の字を賜り、藤四郎秀包(ひでかね)と改名する。


天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで初陣。その後も四国征伐・九州征伐・文禄・慶長の役など多くの戦に参加するが、関ヶ原の戦いにおいて西軍として大津城攻めに参加したため改易、翌慶長6年(1601年)に35歳の若さで病没した。


逸話

  • 立花宗茂とは小早川隆景を義父として義兄弟の契りを結んでおり、多くの合戦を共にしている。
  • 妻は大友宗麟の娘・マセンシア桂姫。本人も受洗し、洗礼名はシマオ。
  • 鉄砲術に長けており、「雨夜手拍子」という銃を愛用していたという。

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戦国武将吉川元春毛利輝元小早川秀秋

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