スミレの花は、ただスミレとして咲けば良いだけであって、それが春の野にどのような影響を及ぼすかは、スミレの預かり知るところではない。
(数学が人類の何に役立つか聞かれた際の答え)
生涯
大阪府で生まれる。しかし、育ちの故郷は和歌山県。京都帝国大学理学部(今の京都大学理学部)卒業。その後、同大学講師、教授とエリートの道を進む。1929年から3年間フランスに留学。ここで岡の人生を決める多変数複素関数論に出会う。
帰国後は広島の大学に勤めるが病気を理由に休職。和歌山に戻り多変数複素関数論の孤高の研究をする。一時期北海道の大学に勤めたが基本的には和歌山で過ごした。
1951年からは奈良女子大学に赴任したこともあり晩年まで奈良県にて過ごす。1960年文化勲章受賞。
1978年死去。
業績の凄さ
当時多変数複素関数論は未発達であり、様々な困難があった。しかし岡は困難を乗り越え理論を一人で構築した。これは例えたら未開の広大なジャングルをたった一人で先進国に作り変えた様なもの。
また、この分野の3つの大問題を解決した(その内1つは約20年の時間がかかった)。
これがどれくらい凄いかというと、欧米の数学者達は1人でこれ等をやったと考えられず「オカ・キヨシ」という若手数学者集団のペンネームだと勘違いしたほどである。
人物
相当な変人であった。そのエピソードには事かかず、非常に多いため後述する。
また、随筆家でもあり多くの随筆を残している。
教育者として
京都大学講師時代には当時生徒であった湯川秀樹、朝永振一郎は「物理の授業よりも岡の授業の方がよっぽど刺激的だった」と言っている。後のノーベル物理学賞受賞者としてそれはどうなの。また広中平祐が未解決の問題を解く方法として制限条件を付けるべきだと発表した時、岡は「それよりももっと問題を理想化して難しくした後にそれを解くべきだ。」と発言し、広中はその方法でフィールズ賞を獲得した。
エピソード
多すぎるので以下抜粋
- 高校時代は一度も歯ブラシを使わなかった。
- 京大講師時代、考え込むと微動だにせず夜8時になったことがある。
- 広島で講師をしていた頃、授業がでたらめで学生から授業をボイコットされた。
- 奈良女子大時代、大学までの道中にある地蔵に石ころを蹴って当たったら大学にそのまま行き、当たらなかったら家に帰った。
- 煙草とコーヒーが好きで食事をせず、ずっと考え事をしていた。
- 交感神経を締め付けるからと着物に帯を巻かなかった。
- 同じ理由でスーツの時もノーネクタイ。
- 長靴が好きで夏場は冷蔵庫で冷やしたものを履いていた。
- 一方で革靴は嫌いで文化勲章受章時には家族が革靴を履かせるのに苦労した。
- 米永邦雄が岡の講演に呼ばれて行ったが、講師の岡が現れなかった。
- その時の理由⇒「私は京都駅の降りたホームで待っていてくれ、と言われた。だから奈良から近鉄線で京都に出て、近鉄線のホームで一時間待っていた。主催者側の人が国鉄の京都駅を探しているであろうことは察しがついていた。しかし私は、降りたホームで、と言われていた。間違えていたのは主催者側だ。正しい方が修正して間違っている方に合わせる、ということはあってはならないことです。間違っている方が正しい方に合わせて修正しなくてはなりません。だから私は近鉄のホームで一時間待って、それで家に帰りました」
- 別の数学者の講義を聞いている時突然立ち上がり「待て!その研究は方向が180度違う!」と叫び、「正しい方向は・・・」と言って、部屋の後ろを指さし、「正しい方向はあっちだ!!」と言った。
- 考えが思いつくとそこ等にあった木や石で難しい式に計算うを当てはめて1、2時間ほどしゃがみ込んだままのことがあり、通行人に驚かれた。
- 周囲からは変人だと思われていたが、自分では常識人だと思っていた。
- ある時岡の教え子たちと花見をすることになったが、当日は生憎の大雨。当然花見などできるはずもない。学生「いや・・・でもあの岡先生だし、もしかしてやるんじゃ・・・」「念の為現地集合しよう」そこへ合同参加する予定だったメンバーと共に岡がやってくる。「こんな天気で花見ができるかどうか常識で考えれば分かるではないか!」学生「・・・」
- 最後の言葉⇒「まだ、したいことはいっぱいあるから死にたくない。しかし、しょせんだめだろうなあ。あしたの朝には命はないなあ。 計算ちごた」