概要
甲斐武田氏18代目・武田信虎の子として大永5年(1525年)に生を受ける。
信虎からは幼少の頃より寵愛されており、兄の晴信を廃して家督を譲ろうとしていたほどであったと伝わっている。
その晴信が天文10年(1541年)に家督を相続して以降は、御一門衆の筆頭として晴信の補佐に当たり、軍事・政務の両面において、信濃侵攻や村上攻めを始めとする武田氏の版図拡大に貢献している。
永禄4年9月10日(1561年10月18日)、第4次川中島の戦いにおいて、上杉軍に裏を掻かれて本陣を急襲され必死に応戦するが、奮闘虚しく37歳で討ち死にを遂げる。兄・信玄や武田家臣団のみならず、敵として相対した上杉謙信からもその死を悼まれており、また川中島の戦いでの信繁の戦死がなければ、後年の信玄とその嫡子・義信の対立もなかったのではないか、とさえ評されている。
その評価の高さは江戸時代に至ってもなお健在であり、信繁が自身の嫡子・信豊に残した「武田信繁家訓」が当時の武士の心得として読み継がれていた程であった。
関連タグ
内藤昌豊 - 信繁没後の武田軍の副将、信繁と並んで「毎事相整う真の副将なり」と評される
真田信繁 - 武田信繁にあやかって命名されたと伝わる