生没年 承久2年2月26日(1220年4月1日)~文永9年2月17日(1272年3月17日)
第83代・土御門天皇と、その典侍である源通子(左近衛中将・源通宗の息女)との間に第一皇子として生誕、諱は邦仁(くにひと)。
生涯
皇位継承
生誕が承久の乱の前年であった事から、その幼少期も必然的にその影響を多分に受ける形となった。父・土御門上皇は乱の後自ら阿波への配流を望み、また生母である通子も天皇を産んでから程なくして死去したため、母方の大叔父に当たる中院通方や、その兄である土御門定通らの下で養育された。
とはいえ乱の後、皇統は後鳥羽天皇の血筋から後高倉院(守貞親王、後鳥羽上皇の同母弟)の血筋へと移っており、またこの頃は土御門家も不遇の時期を迎えており、20歳を過ぎてなお出家はおろか、元服すらままならない状態を強いられる事となる。
このような状況が大きく一転したのが、仁治3年(1242年)の四条天皇の突然の崩御であった。わずか12歳で崩御した四条天皇には後継となるべき皇子も兄弟も無く、結果として一度は排除されたはずの後鳥羽上皇の血統から、次の天皇を選ぶ事を余儀なくされたのである。
その際、時の朝廷の有力者であった太閤・九条道家らが忠成王(順徳上皇の皇子)を推す中、鎌倉幕府執権の北条泰時と六波羅探題北方・北条重時は、「承久の乱の主導者たる順徳上皇の皇子を擁立するのは好ましくない」と異を唱え、武力介入の可能性と鶴岡八幡宮の神意を背景に擁立したのが、ほかならぬ邦仁王であった。邦仁王の庇護者である土御門定通と北条重時とが縁戚同士であったのも、幕府が邦仁王を皇嗣として推す大きな要因となった。
この皇位継承問題によって11日もの空位期間が生じたものの、最終的には邦仁王が皇位を継ぐという形で問題は収束、仁治3年3月18日に第88代天皇として即位した。
御嵯峨院政と両統迭立の火種
天皇に即位したとはいえ、政治的な基盤が心許ない御嵯峨天皇は、当時朝廷の実力者であった西園寺家と婚姻関係を結び、また六波羅探題とも協調関係を持つ事でその安定化を図った。さらに寛元4年(1246年)に皇子・久仁親王(後深草天皇)に譲位すると、同時期に九条通家が宮騒動に連座して失脚したのもあり、その影響力を排除する形で御嵯峨上皇自らの手による院政が敷かれる事となる。
既に朝廷掌握・統制を進めていた鎌倉幕府も、上皇の院政への全面的な協力姿勢を示すと共に、宮騒動にて廃された摂家将軍に代わる新たな将軍として、上皇の第一皇子に当たる宗尊親王を鎌倉へ下向させる事で合意するなど、20年近くに及ぶ院政期のうちは朝幕間の関係も比較的安定したものとなった。
文永5年(1268年)に出家・法皇となって大覚寺に移った後、文永9年に53歳で崩御。天龍寺(現・京都市右京区嵯峨)内の嵯峨南陵に葬られた。しかし生前、後深草上皇の皇子ではなく亀山天皇(後深草上皇の弟)の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子と定めながらも、肝心の次代の治天の指名までは明確になされず、崩御直前に認めた譲り状においても皇統の事については一切言及されぬまま、ただ鎌倉幕府の意向に従うようにとの遺志が残されたのみであった。
上皇のこの曖昧とも取れる態度の裏には、当時の治天の君の決定権が鎌倉幕府に握られており、例え自身が明確に後継者を指名したところで幕府の意思次第で引っくり返される事を、自らの即位に際しての経緯から痛感していたが故とも考えられる。いずれにせよこの事が、崩御後に後深草上皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)との間での確執が生じるきっかけとなり、両者の対立はやがて2世紀前後にもわたる南北朝動乱へと繋がっていくのである。
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