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吉田松陰の編集履歴2019/04/19 11:44:12 版
編集者:tenndaihuu
編集内容:内容、そして井伊直弼についての評価を追加

吉田松陰

よしだしょういん

文政13年~安政6年 幕末の長州藩士。名は矩方、字は義敬、通称は虎之助・寅次郎など。松陰・二十一回猛士などと号した。

概要

長州山口県の生まれ。

6歳のとき山鹿流兵学の師範吉田家を継ぎ、兵学や史学を修めた。また長崎江戸に遊学して時勢に心を動かされ、佐久間象山に師事して洋学などを学んだが、開国公武合体論を説いた師とは逆に攘夷論の立場をとる。

ペリー再来に乗じて海外密航を企てて投獄され、出獄後は萩に松下村塾を開いて子弟を教育し、幕末・維新に活躍する高杉晋作久坂玄瑞木戸孝允伊藤博文山県有朋ら多くの人材を輩出した。

時の江戸幕府が外国との不平等条約を無勅許で締結したことに激怒し、締結に尽力した老中の暗殺計画を画策して弟子たちに協力を求めたが、弟子達に「暗殺計画はやめてくれ」と説得されると彼は弟子たちを破門させた。

そして安政の大獄に際して捕えられ、刑死した。

しかし、この一件は捕縛された梅田雲浜が暗殺計画と関与して無い松陰を巻き込んだ説がある。

現に松陰は最終的に流罪で済むのを井伊直弼が攘夷派を潰す為にでっち上げた可能性がある。

『講孟余話』『留魂録』『松陰詩稿』『孫子評注』などがある。

人物

経歴を見ればわかるように、後に明治維新の立役者となる多くの志士たちを弟子に持ち、彼らを育て上げたという功績があり、幕末を語る上では欠かせない人物ではある。

しかし一方で、29年の人生で5回も投獄されるなど長州藩の問題児でもあった。無論それは国家存亡の危機に立たされた日本の未来を憂い、何とか状況を打破しようという熱意故のものだが、その為に藩法をよく破り、松陰に理解のあった藩の上層部すら困らせた。

老中暗殺計画を公言するようになった際は、長州藩の判断によって投獄されが死罪になる予定は無かった。しかし、松陰と同じく幕政を批判していた一橋派の梅田雲浜が安政の大獄で捕縛されると、梅田との関係を幕府に疑われて江戸に連行される。そして取り調べを受けた際に聞かれてもいないのに老中暗殺計画を公言した為、驚いた幕府の判断によって刑死となった。

狂愚まことに愛すべし、才良まことに虞るべし。諸君、狂いたまえ。」という門人に向けた言葉もよく知られている。

たとえ嫌いな人物であっても評価は是々非々らしく、安政の大獄を起こした井伊直弼については彦根藩の統治だけなら「名君」と評価しており、大獄の協力者であった水野忠央についても水野奸と蔑む一方で才能ある人物と評価していた。

創作での吉田松陰

吉田松陰を題材にした人物、またはモチーフにしたキャラクターが登場する作品。

乙女パズルゲームの攻略キャラクター。→吉田松陰(ラヴヘブン)

異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。

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