TOMY
とみー
概説
1624年に巣鴨で立ち上げられた玩具製造会社富山玩具製作所が発祥。
1952年に三陽玩具製作所(三陽工業)となり、1959年に三陽工業の営業事業部が分社化して富山商事を立ち上げ。さらに1963年に富山商事が営業部の株式会社トミーに、三陽工業が製造部のトミー工業になり、玩具販売のブランドおよびコーポレートアンデンティティ(CI)をトミー(TOMY)とした。1989年に両社を合併させ、改めて「株式会社トミー」となる。
玩具の製造所から玩具メーカーへと発展した出自から技術開発人員に強い重みを置いていた経緯があり、業界では「技術のトミー」と謳われた事もある。
その一方で、初代からの「長く子どもたちに愛される玩具を」「大人になっても大事にしてもらえる玩具を」というこだわりから、玩具業界で最も収益を得やすいキャラクター玩具の取り扱いに関しては大きく出遅れた。(TOMYの初代・二代目は提携コンテンツが終わればすぐに用済みになってしまい子どもたちからも飽きられてしまうキャラクター商品を「物を大事にすることを否定し、おもちゃや子どもを不幸にする、水もの玩具」と呼び嫌っていた)
だが、そのこだわりこそがトミカ・プラレール・ゾイドなどに代表される、現在でも通用しコレクターズアイテムとしても発展した息の長いブランドを持つ玩具群を生み出した原動力でもあった。
また鉄道模型分野でもTOMIXブランドで展開し、その技術力を見せつけた。なお現在、この分野はトミーテックに分社化されている。
TOMYにとって最初の転機となったのは三代目である富山幹太郎が社長となった事である。この頃になるとTOMYはキャラクター商品忌避と技術開発へのこだわりゆえに、キャラクター商品を扱う他社(バンダイ・タカラなど)から大きく水を揚げられジリ貧の状態が秒読みとなっていた。さらに幹太郎は他ならぬ自分の息子から面と向かって「トミーはカッコ悪いからバンダイに行きたい」とまで言われてしまう。この状況を打破するため、幹太郎は社内の声を押し切りキャラクター商品の開発展開へと舵を切る。しかし、業界内で提携できるキャラクターは既に他社に抑えられていたため、この方針転換は一進一退を繰り返す。
この一進一退を打破した二つ目の転機が『伝説巨神イデオン』で既知を得た富田祐弘との企画作品『愛天使伝説ウェディングピーチ』である。1995年に展開された同作そのものは、当時『美少女戦士セーラームーン』(玩具はおなじみバンダイ)の競合作となってしまったため奮う事はなかったが、この作品によって得られた小学館およびOLMとのパイプこそが後のトミーにとって大きな財産となったのである。『ウェディングピーチ』のパイプ(と、セーラームーンブーム時に『ウェディングピーチ』を守るという目的による意気によって各社連携間で培われた一体感)は後にトミーが『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』『ポケットモンスター』に深く関わる下地を創り上げた。そして、この両作の玩具企画に関わった事がトミーのキャラクター商品の質や開発体制を大きく向上させた。そして1997年には、ついにバンダイに次ぐ玩具業界売上2位の座に躍り出る。それは後にタカラがベイブレードのヒットを飛ばした2001年まで続いた。
しかし後にタカラがベイブレードのヒット後に海外事業や多角事業を大コケさせて業績を悪化させてしまう。そのためタカラが持つブランドを守る目的で、2006年にTOMYを存続会社として合併に至りタカラトミーとなった。