経緯
1924年にワシントン海軍軍縮条約が締結された後、列強諸国はそこで対象外となっていた巡洋艦や駆逐艦などの建造競争に明け暮れていた。本条約はそれらにも制限を課すものである。
具体的には以下の通り。
- 日本の補助艦全体の保有率を対米比6.975
- 戦艦建造中止措置の5年延長、および既存艦の削減。
- 1万トン以下の軽空母も条約の対象に追加
- 重巡洋艦の合計排水量を米18万トン、英14万6800トン、日10万8000トンとし、主砲を6.1インチ以上8インチ以下とする。
- 軽巡洋艦の合計排水量を米14万3500トン、英19万2200トン、日10万450トンとし、主砲を5.1インチ以上6.1インチ以下とする。
- 駆逐艦の合計排水量を米英15万トン、日10万5500トン、主砲を5.1インチ以下、1艦あたりの排水量は600トン以上1850トン以下かつ1500トンを超える艦は合計排水量の16%とする。
- 潜水艦の合計排水量を5万2700トン、1艦あたりの上限排水量は2000トン、備砲は5.1インチ以下(3艦に限り2800トンで6.1インチ以下)とする。
影響
- 比叡が練習戦艦となった。
- 条約に収めるために小さい艦に無理やり重武装を載せようとした結果、友鶴事件・第四艦隊事件が起きる原因となった。そこまでには至らずとも、条約型駆逐艦の初春型駆逐艦や白露型駆逐艦は評価が低い物となっている。
- 条約に反対する海軍や野党(立憲政友会)は、政府が天皇の許可なしに軍縮条約を結んだのは統帥権を犯す物だと抗議し、政局は混乱。ついには時の首相である浜口雄幸が暗殺される一因となった。
条約の終焉
1936年、日本が脱退したことで本条約は失効となり、第二次世界大戦に至る制限なき軍拡競争が始まった。