概要
1930年に締結された第一次会議に基づく条約と1936年に締結された第二次会議に基づく条約がある。
基本的には、1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約の制限を拡大したものである。
第一次ロンドン海軍軍縮条約
ワシントン海軍軍縮条約を締結後、条約締結国では制限外となっていた基準排水量1万トン未満の巡洋艦や駆逐艦などを主とする艦船の建造競争に明け暮れていた。
本条約はそれらにも制限を課すもので、1930年1月から同年4月にかけ、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五か国が参加して国際会議が行われ、同年4月22日に調印、その後調印した国はすべて批准するに至った。
具体的には以下のとおり。
- 日本の補助艦全体の保有率を対米比6.975
- 戦艦建造中止措置の5年延長、および既存艦の削減。
- 空母は基準排水量にかかわらず、すべてを条約の保有制限の対象として算入する。
- 6.1インチより大きく8インチ以下の主砲を持つものを重巡洋艦(巡洋艦カテゴリーa)とし、保有できる基準排水量の合計を米18万トン、英14万6800トン、日10万8000トンとする。
- 5.1インチより大きく6.1インチ以下の主砲を持つものを軽巡洋艦(巡洋艦カテゴリーb)とし、保有できる基準排水量の合計を米14万3500トン、英19万2200トン、日10万450トンとする。
- 駆逐艦の備砲を5.1インチ以下とし、保有できる基準排水量の合計を米英各15万トン、日10万5500トン、1艦あたりの排水量は600トン以上1850トン以下かつ1500トンを超える艦は合計排水量の16%とする。
- 潜水艦の合計排水量を5万2700トン、1艦あたりの上限排水量は2000トン、備砲は5.1インチ以下とする。ただし3艦に限り上限排水量2800トンで備砲を6.1インチ以下とする。
- 排水量1万トン以下、速力20ノット以下の特務艦、排水量2000トン以下、速力20ノット以下、備砲6.1インチ砲4門以下の艦、および排水量600トン以下の艦は無制限。
影響
- ワイオミング(アメリカ)、アイアン・デューク(イギリス)、比叡(日本)が練習戦艦となった。
- 日本海軍では、条約に収めるために小さい艦に無理やり重武装を載せようとした結果、友鶴事件・第四艦隊事件が起きる原因となった。そこまでには至らずとも、条約型駆逐艦の初春型駆逐艦や白露型駆逐艦は評価が低い物となっている。
- 日本では、条約に反対する海軍や野党(立憲政友会)が「政府が天皇の許可なく軍縮条約を結んだのは統帥権を犯すもの」と抗議して政局は混乱した。ついには時の首相である浜口雄幸が暗殺される一因となった。
第二次ロンドン海軍軍縮条約
第一次ロンドン海軍軍縮条約の改正を目的として1934年に予備交渉が開始されたものの不調に終わり、同年12月に日本はワシントン海軍軍縮条約の破棄を加盟国へ通知、1936年1月にはイタリアとともに軍縮会議からの脱退も通知した。
その後、1936年3月25日、アメリカ、イギリス、フランスによる三か国条約として締結された。
- 建艦案の通知、及び情報交換。
- 戦艦にかかる規制を変更し、1艦あたりの上限について基準排水量を35000トン、主砲を14インチ砲とする。
- 空母にかかる規制を変更し、1艦あたりの上限について基準排水量を23000トン、備砲を6.1インチ砲とする。
- ワシントン海軍軍縮条約を批准した国で、1937年4月1日までに本条約への調印、批准に至らない国があったときは、建艦の制限を緩和する。(エスカレータ条項)
条約の終焉
1936年、日本が第二次ロンドン海軍軍縮会議を脱退したことで、1934年12月にワシントン海軍軍縮条約の破棄を通知していたこともあって日本には一連の海軍軍縮条約が適用外となった。
1938年には第二次ロンドン海軍軍縮条約締結国においても建艦の制限を緩和するエスカレータ条項が発動、第二次世界大戦に至る制限なき軍拡競争が始まった。