平景清
たいらのかげきよ
『平景清』とは、平安時代に存在した歴史上の人物。
概要
本名は『藤原景清』(ふじわらの かげきよ)だが、伊藤氏(伊勢藤原氏の系譜)に連なるため『伊藤景清』(いとう かげきよ)の名も持つ。
父の藤原忠清(ふじわらの ただきよ)の七男であり、忠清が上総介(かずさのすけ、上総国=現在の千葉県中域の次席国司)を務めていた事から「上総七郎」(かずさのしちろう、「忠清の七男坊」という意味)、また景清本人が兵衛尉(皇居を守護する武官)として出仕していた事から「悪七兵衛」(あくしちびょうえ、「悪党並みに強い兵衛府の七郎」という意味)の異名を取り、勇猛果敢なる平家の侍大将として怖れられた。
政権奪還を目指した後白河法皇の勅命を受けて台頭した源氏一党に都を追われた平家に従軍し、源平合戦において平知盛と並ぶ武将として源氏を大いに苦しめた。壇ノ浦の戦い以後に捕えられ、預けられた武家で80日の断食の後に死んだとされている。
各地に残る景清伝説の中でも特に清水寺との縁が深く、伝承によると源頼朝の命を狙って失敗して捕えられた際、「源氏の世は見られぬ」と自ら両目を刳り抜き、その目玉を奉納したという伝説が残されている。また、これとは別の伝承には獄中にあって自分の爪だけで小さな千手観音像を彫り上げたとされ、清水寺境内の随求堂前にある石堂に『景清爪彫観世音』(かげきよつめぼりかんぜおん)として伝来、安置されている。