概要
生没年:?~249年2月9日(正始10年1月10日)
魏の曹一族に仕える。祖父は後漢末期の大将軍何進、母の尹氏は曹操の妾、妻は曹操の娘というかなり恵まれた出自をもつ。ちなみに父親、つまり何進の息子の名前は伝わっていない(一説には「何咸」と言う名前だったとも言われる)。色白なイケメンで弁舌もたつため、相当に女性にモテたという。その代わりかなりの好色なナルシストで、「五石散」と呼ばれる覚醒剤を流行らせた。思想の分野で活躍し、道家の大家である老子と荘子を合わせた玄学(老荘思想)を創始した。大将軍曹爽に取り入って重臣司馬懿を中央から追いやって権勢を極めたが、後に司馬一族の巻き返しに遭って処刑された。
生涯
才気煥発で曹操に気に入られていたが、後を継いだ曹丕には疎まれ、しばらくは閑職にまわされる。その後の曹叡の時代も上辺だけの人物として重用されなかった。
しかし、曹叡がその死に際して重臣の司馬懿と一族の曹爽に幼帝の曹芳の補佐を託したことから事態は一変する。曹爽とかねてより親しかった何晏は、曹爽の側近として中央政界に進出する。吏部尚書として朝廷の人事権を握ると、不良仲間の丁謐や鄧颺と共に曹爽を担ぎ、司馬懿を閑職に追いやる事に成功する。その後は自分達に都合の良い人々を次々の登用していった。古来からあった儒教的な価値観を否定し、人間の欲望を肯定する玄学を打ち出す。当時は諸葛亮の死によって蜀や呉が大人しかったこともあり、曹爽たちと共に我が世の春を謳歌する。しかし、ある時戯れに高名な占い師の管輅を呼ぶと、彼に自らの破滅を予想される。
それからまもなくして、曹爽は遊興に出かけ、何晏たちもそれに随行する。しかし、宮廷を不在にした隙をつかれて司馬懿にクーデターを起こされ、曹爽や仲間たち、自分の一族諸共処刑された。
享年は不明だが、5・6歳の孫(こちらは助命されている)が居たという事なのでそれなりに高齢になっていたと思われる。
創作上の何晏
激動の三国時代において最も巨大だった魏で権力の絶頂を極めた人物…ではあるが、彼が歴史の表舞台に出てくるのは三国志演義のメインキャストとも呼べる人々の大半が死んでからであるため、司馬懿に焦点が当てられない限りは作品で取り上げられることは少ない。
蒼天航路
物語後半、曹植の親友として登場。曹植とは「ちーちゃん」、「あんちゃん」と呼び合う気安い中である。女物の羽織を好んだり、飄々としつつもどこか冷徹な目で周囲を見ている性格で、曹操の布告に振り回される儒者たちにも非常に皮肉的。のちに曹操の命により『儒の毒を制す』べく孔子の思想を学ぶこととなる。