ポーランド分割
ぽーらんどぶんかつ
概要
ポーランド分割(ポーランド語ではRozbiór Polski、ドイツ語ではTeilungen Polens、ロシア語ではРазделы Речи Посполитой)とは、ポーランドの国土がプロイセン(ドイツ)やロシアなどの周辺国に分割された出来事である。狭義のポーランド分割は、18世紀に3回にわたって周辺国に領土を奪われたものだが、19世紀と20世紀にも同様の出来事が起きた。
前史
ポーランドでは1572年にヤギェウォ朝が断絶した後、選挙王政となったが、国内の貴族同士の対立で外国の干渉を招いた。17世紀にはロシアやスウェーデンとの戦争で領土の一部を喪失し、18世紀に入るとスウェーデンやロシアの干渉で国王が挿げ替えられる事態になった。更に、1733年にはポーランド継承戦争が起き、周辺国の内政干渉は増していった。
第一次ポーランド分割(1772年)
ロシアのエカチェリーナ2世は、親露派の貴族をポーランド国王(スタニスワフ2世)にして、内政干渉を強めた。プロイセン王フリードリヒ2世はロシアのこのような動きを警戒して、オーストリアのヨーゼフ2世を誘って、ロシアにポーランド分割を提案。ポーランドが自立に向けた動きを見せていた事を警戒したロシアは、プロイセンとオーストリアの提案に応じ、この3国は1772年に、それぞれ国境に隣接する地域を奪った。
第二次ポーランド分割(1793年)
第一次ポーランド分割後も、ポーランド側の自立に向けた動きは収まらなかった。スタニスワフ2世は1791年にヨーロッパ初の成文憲法「5月3日憲法」を制定し、ポーランドは世界初の立憲君主制国家になった。この改革に反対した貴族達はロシアと結託して、翌年、ロシア軍を自国に引き入れた。然し、勝算が無いと判断したスタニスワフ2世は貴族と妥協してロシアに降伏したため、戦争は終結した。この直後、プロイセンがポーランドの領土の一部を要求したため、1793年にプロイセンとロシアは、再度ポーランド領土の一部を奪った。
第三次ポーランド分割(1795年)
1794年、アメリカ独立戦争から帰還したタデウシュ・コシチュシュコがクラクフで蜂起し、一時はロシア軍を破ったが、ロシア・プロイセン連合軍により鎮圧された。この戦後処理により、1795年にロシア・プロイセン・オーストリアの3国はポーランドの残った領土を分割。これによりポーランドは地図から姿を消した。
第四次ポーランド分割(1815年)
1799年から起きたナポレオン戦争に刺激されたポーランド市民は1806年にプロイセンから自立し、フランスに協力した。その結果、1807年にフランスとプロイセンが結んだティルジット条約に基づき、ワルシャワ公国が成立。ポーランドは一時的に独立を回復した。然し、1812年にナポレオンがロシア遠征に失敗すると、公国はプロイセンとロシアに占領され、1815年のウィーン会議で両国に分割されてしまい、再びポーランドは地図から姿を消した。
第五次ポーランド分割(1939年)
第一次世界大戦(1914~1918)の終結間際に、ドイツとロシアで革命が発生。これによってチャンスを得たユゼフ・ピウスツキはポーランド共和国(第二共和国)を成立させた。然し、1939年8月23日にナチス・ドイツとソ連が不可侵条約を制定した直後の9月1日にドイツがポーランドへの侵攻を開始し、同17日にはソ連もポーランドへ侵攻した。同26日には独ソ両国の間でドイツ・ソビエト境界友好条約が締結され、ポーランドの領土は分割されてしまい、3度ポーランドは地図から姿を消した。その後、戦災や民族浄化などでポーランド人の20%が死亡し、結局独立を完全に回復したのは1989年であった(国家自体は1952年に再建されたが、ソ連の衛星国だった)。