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孫皓の編集履歴

2020-02-09 19:09:47 バージョン

孫皓

そんこう

呉最後の皇帝であり、三国時代最大の暴君として知られる。

孫権の第三子・孫和の子 、本名は孫晧。


狂気の情愛あり機知に富むやり取りあり、更には能書に石碑に仏教にと、様々な逸話を残している人物。


『二宮の変』の鬼子

孫皓の父孫和は、初代皇帝孫権の皇太子に立てられていたが、孫権の後継者をめぐる内紛(二宮の変)に巻き込まれ、赤烏十三年(250年)皇太子を廃され、南陽王として長沙においやられた。

建興二年(253年)、孫権の死後に実権を握った諸葛恪が孫峻に殺害されると、孫峻と孫魯班は孫和に諸葛恪とのつながりを咎め、王位も剥奪し新都に追放、自殺に追い込んだ。孫和の正妻張氏も共に自殺し、孫和の子達は孫皓の実母何姫に育てられた。

皇太子であった父は廃嫡され自殺に追い込まれ、宮廷は諸葛恪、孫峻、孫綝と、皇帝廃嫡さえ行う相次ぐ権臣の専横。政争に明け暮れ互いに殺しあう皇族たち…

二宮の変以来続く呉宮廷の暗闘の嵐を幼い目に焼き付け孫皓は育っていった。


太平三年(258年)9月。孫魯班、全尚、そして皇帝孫亮らが権臣孫綝の暗殺を計画。しかし計画は発覚し、孫綝は孫魯班と全尚を追放。孫亮も退位に追い込み、新たに琅邪王孫休を即位させた。

孫和を陥れ自死に追い込んだ反孫和派の筆頭、孫魯班の失脚。

これにより、孫和の息子である孫皓たちは復権を果たし、新皇帝孫休により、孫皓は烏程侯に、弟たちもそれぞれ侯に封じられた。

同年11月。孫休のクーデターにより孫綝は殺害。孫休は、即位前からの腹心濮陽興と張布らと共に親政を始め、混乱が続いた呉の安定をめざしてゆく。

烏程侯になった孫皓は、ここで烏程県令であった万彧と親しい交わりを結ぶ。

だがようやく侯にとりたてられたばかりの廃太子の息子。皇帝孫休はまだ若く、男子も四人。本来なら孫皓が皇帝になる可能性などなかった、はずだったのだが…。


永安七年(264年)、皇帝孫休が急死した。

昨年には交趾郡で反乱、更には蜀の滅亡と、当時の呉は危機的状況にあった。孫休の子はまだ幼少であり、群臣達は頼もしい主君を望んでいた。

孫休の重臣である濮陽興と張布、そして孫休の皇后朱夫人に「烏程侯には長沙桓王(孫策)の才知あり」と説得したのが、今は左典軍となっていた万彧であった。

かくて国難迫る中、呉国中の期待を担って孫皓は即位した。時に23歳。


皇族粛清

孫皓は位につくと、その年の内に父の孫和に文皇帝という諡号を与えた。そして陵を改葬し、墓守のために200家以上の園邑を作り、墓を守る役職を設け、任に当たらせた。さらに新しい郡を作り、その郡に季節ごとに陵の祭礼を行うよう命じた。

これだけでも篤い祭礼であるが、さらに建業に孫和の廟を立てた。

廟に孫和の霊を迎えたとき、 巫覡の「孫和様の霊は衣服も顔色も生きているときのままとお見受けします」との報告を聞いた孫皓は感涙にむせび泣き、七日のうちに三度の祭を行い、昼夜の別なく歌舞を演じさせた。

さらに、生母の何氏の位を上げて太后とした。


孫皓のこの姿勢からは、父孫和こそが正統な皇統であるとの強烈な思いが見える。

その反面、孫皓は他の皇族たちを次々と粛清してゆく。


元興元年(264年)9月、前皇帝孫休の皇后であった朱太后は景皇后にされた。これは太后からの格下げを意味する。

さらに甘露元年(265年)秋7月に孫皓は景皇后を迫害し、死においやった。

また、孫皓は孫休の4人の子を捕らえて呉の小城に閉じ込め、年長の2人を殺害した。

孫休の腹心であった濮陽興と張布は、孫皓を即位させたことを後悔したが、それを万彧に讒言され、結局孫皓に誅殺された。


孫皓には3人の弟がいたが、そのうち孫謙は、後述する施但の反乱に担ぎ上げられ、後に孫皓に母親や息子含めて殺された。

末弟孫俊は聡明で評判高かったが、これも孫皓に殺害された


二宮の変で父孫和と皇太子の位を争った孫覇の息子、孫基・孫壱は会稽郡へ追放された。


建衡二年(270年)孫皓が寵愛していた王夫人が亡くなり、孫皓は哀しみのあまり数ヶ月間引きこもってしまい、人前に姿をあらわさなくなった。そのため「孫皓は実は死んでいて、孫奮(孫権の息子)と孫奉(孫策の孫)のどちらかが即位する」という噂が流れた。孫皓は怒り、孫奮と五人の子を、また孫奉も殺害した。


同年。夏口都督孫秀(孫権の弟孫匡の孫)は、孫皓を恐れて晋に亡命した。


天璽元年(276年)、皇族の孫楷(孫堅の血統ではない)が晋に投降した。


二宮の変以来相次いだ政変につづいて、この孫皓の粛清。こうして呉の皇族はほぼ根絶やしとなってしまった。


また、呉の著名な史家・学者であり、孫皓が寵愛していた韋昭(韋曜)も、後に不興を買って処刑される。

史書で孫和の本紀をたてるよう命じられたのを拒否したことが原因であった。

史書で本紀とは皇帝の記録のことであり、「皇帝に即位していない孫和を皇帝として扱うことはできない」という姿勢が孫皓の逆鱗に触れてしまったのである。


内憂

孫皓は即位直後から、相次ぐ国内の反乱に応対しなければならなかった。


孫休時代に交趾郡で起こった呂興の乱。呂興は魏に救援を依頼した。

孫皓が即位した元興元年(264年。魏の咸熙元年)司馬昭の命を受け呂興の救援に赴いたのは、蜀の時代から南中を守備していた南中都督霍弋。

霍弋は蜀の南中から兵を出し、交州三郡を占拠。呉は南方も魏に押さえられてしまった。


また、武陵郡でも反乱が発生。魏は、霍弋と同じく蜀の時代から巴東を守備していた羅憲を武陵太守・巴東監軍に任じ、反乱を支援させた。


建衡三年(271年)、霍弋の死後、陶璜(陶コウ)らの活躍もあって、呉は交州を奪還した。しかし、後述する施但の反乱等、孫皓時代の呉には反乱や疫病が相次いだ。

天紀三年(279年)、郭馬の反乱。孫皓が広州の戸籍を調査しなおして課税を強化しようとしたことに対する反乱であり、この郭馬の反乱は、直後の晋侵攻とも相まって、呉滅亡の重要要因となってしまうのである。


外患

孫皓と呉の最大の課題はやはり、同盟国蜀を併呑し、北、西、南と呉を三方から囲みこんだ超大国魏晋への対応であった。


孫皓の即位直後の264年(魏の咸熙元年、呉の元興元年)。魏の晋王司馬昭は、呉に降伏を薦める書簡を送ってきた。

孫皓は返書で「皓、申し上げる」「私も晋王のように世道を正しく導いてゆきたいと願っております」とへりくだり、使者を洛陽に送った。

呉の使者は洛陽で魏帝に会ったのち、晋王司馬昭に宴席に誘われた。その宴席で使者は二人の人物を紹介された。

「あちらが安楽公(劉禅)、あちらが匈奴の単于(呼廚泉)です」

巴蜀の地と匈奴を従え、魏皇帝をもしのぐ晋王司馬昭の権勢を、呉の使者たちは見せつけられた。


魏が晋に変わったころから、孫皓は盛んに北伐の計画を進めてゆく。

宝鼎元年(266年)弋陽侵攻を群臣と図るが、陸凱の反対もあり沙汰止みに

宝鼎三年(268年)孫皓は東関に親征し、施績が江夏に詰める。万彧が襄陽、丁奉と諸葛靚は合肥に出兵。晋軍と激突するが、結局敗退

建衡二年(270年)丁奉が渦口に入るが、揚州刺史の牽弘が撃退する

鳳凰二年(273年)魯淑と薛瑩が西晋に出兵したが、弋陽の戦いで王渾に撃退された

天紀元年(277年)夏、夏口の督の孫慎が江夏から汝南に軍を進め、焼討ちをかけて住民を略奪

279年(西晋の咸寧五年。呉の天紀三年)秋。呉滅亡の前年においても、晋の安東将軍王渾は「孫皓に北伐の動きあり」と洛陽に上表している


また、甘露元年(265年)9月。孫皓は建業から武昌に遷都した。西陵督歩闡の上表をうけてのことであり、荊州防衛の強化、あるいは荊州からの北伐の意図があったものと思われる。

しかし、これによって揚州の民衆は、貢納を長江のはるか上流の武昌にまで送らねばならず、負担が増え不満が高まった。

陸凱をはじめ臣下たちの遷都反対の諌言も相次ぐ中、翌宝鼎元年(266年)冬10月、永安(白帝城の永安ではなく、現在の浙江省湖州市のあたり)の山賊の施但らが数千人の徒党を集めて反乱、孫皓の異母弟である永安侯の孫謙をかついで烏程まで進み、建業近郊の孫和の陵まで襲われた。

遷都は反乱と国内の疲弊を招いただけに終わり、その年12月に都は建業に戻された。


建衡三年(271年)春正月晦、孫皓が多くの重臣たちと、母や妃妾まで引き連れて華裡(建業の西)にまで行幸するという謎の事件がおこる。


呉の国内では後述する「孫皓がまーた変なお告げに従ったのかよ」と噂されたが、晋の側では「孫皓は寿春侵攻を狙っているのでは」と判断され、司馬望が増援に赴いている。

晋において、孫皓は北伐に積極的な君主と見られていることがわかる。


しかし結局、孫皓の北伐ははかばかしい結果をあげることは出来ず、国力を疲弊するだけであった。陸抗は「むやみな出兵は取りやめて、兵士民衆の力を養い相手の隙や短所を十分見定めた上で行動してください」と諫めた。


権臣処刑

皇族を粛清し続けた孫皓は、家臣をも次々と追放殺害してゆく。

孫皓の顔色を伺うことなく諫言してきた、誇り高く威厳ある気質の王蕃は、宴席のとき正殿の前庭で斬り殺された

清廉な人格者であった楼玄を、孫皓は交州に追放し、更に現地の武将に殺害を命じた。楼玄に敬意を抱いたその武将は命令を守らずにかばったが、やがてそのことを知った楼玄は自殺した。

民衆の財貨を強奪させた孫皓の愛妾を法に従って処刑した司市中郎将の陳声。孫皓は激怒し、焼いた鋸で陳声の首を斬りおとした

「民が疲弊し反乱が頻発しているのは租税や徴用のため」と諫言した賀邵は免職され、後拷問を受け殺された


また、孫皓の粛清で特徴的なのは、自分で可愛がり取り立てた権臣たちをも処刑するところである

孫皓即位に尽力し、家隷からのし上り大抜擢されたため、多くの人から軽蔑されていた万彧

阿諛追従で上に巧みに取り入り、権力をかさに来て犬を献上させたり、 李勖を讒言し一家皆殺しに処したにもかかわらず列侯の爵位まで与えられた何定

讒言誣告を盛んに行うことで昇進し、孫皓から深い寵愛を受けた張淑

ずるがしこく立ち回り孫皓に取り入り九卿の位まで上り、土木工事を好み民衆を労役に借り出した岑昏


孫皓の寵臣として権勢を振るったこれらの家臣は、後にことごとく孫皓自身により失脚あるいは処刑された


しかし、これら佞臣と呼ばれる人物たちの事跡を見てみると

万彧:右丞相に上り詰め、巴丘の守備を任されるなど要職についており、かつ失策などは特に記されていない。また、良臣とされる楼玄を宮中に任用しするよう上奏したのも万彧である

何定:孫皓の命を受けて夏口に兵五千を率い、孫秀を晋亡命まで追い込む。また、李勖を一家皆殺しにした讒言「交阯奪還のために出陣させた李勖が、部下を殺害して勝手に軍を帰還させた」は虚偽ではなく事実

張淑:「誣告や讒言を受付け調査する部署の責任者」という、もっとも人から嫌われやすい役職についたこと


など、一概に奸臣とばかりは言えない側面もあるため、

低い家柄の人材を抜擢して重臣豪族に対峙しようとする皇帝孫皓と、反発する豪族層の板ばさみでつぶされた人々と捉えることもできる。


また、諫言する臣下の中にも、処罰されなかった者もいる。後述する陸凱や陸抗、また華覈などである。

華覈は、孫皓が臣下を殺害追放しようとするたびに反対し助命を嘆願した。その他諫言や推薦等、百通以上の上奏文を捧げた。最後には小さなことで譴責を受けて免職されたが、命は奪われなかった。


天発神讖碑

「孫皓は占いやお告げにすがり国政を乱した」ということはよく知られているが、孫皓がのめりこんだ「占いやお告げ」とは讖緯説のことである。

讖緯説。王莽や光武帝が、そして近くは後漢末期の袁術、劉備、はては漢から禅譲をうけた魏が即位の論拠として利用した、未来を予言する儒教の学説。

孫皓はこの讖緯説を使い、呉王朝の正統化と皇帝権威の伸張を図った。


孫皓の讖緯でとりわけ有名なものが、天璽元年(276年)に建てられた天発神讖碑と、封禅の儀式である。


天璽元年、鄱陽から報告があった。

「歴陽山の石の筋目が字の形となった。それには

楚九州渚,呉九州都。揚州士,作天子。四世治,太平始

と書かれていた」

孫皓は「呉は九州の都となる。そして朕は大帝(孫権)から四代である。太平の主君とは即ち朕である」として

石に銘を刻んで碑をたてて祥瑞に報いた。これが天発神讖碑である。


また同年、呉興の陽羨山の岩の各所に瑞祥が表れている、と報告があった。そこで、記念として山名を「国山」と改称して封禅を行い、石碑を建てた。これが封禅国山碑である。


このようにして建てられた天発神讖碑は、掘り込まれている書体の異形さで名が知れている。

後世の評価も

「篆書体でもなく、隷書体でもない。極めてまれなもの」

「奇怪の書」

「牛鬼蛇神」

「関わりすぎると心身に異常をきたす」

「孫皓の異常な心理の発露」


等々結構ひどい言われようであるが、反面この書風を取り入れた徐三庚のような書家もいる。

また、天発神讖碑は拓本が、封禅国山碑は石碑が現存しており、呉時代の貴重な遺物となっている。


このように瑞兆が相次ぐ孫皓時代の呉。この記事をここまで読まれた皆様にもお分かりいただけただろうか?孫皓時代の元号は異様に多いのである。

上記のほかにも頻繁に瑞兆が報告され、そのつど改元が行われた。孫皓治世16年のうち、改元は8回。大赦は12回。

瑞兆を、改元を、そして大赦を。恩徳を見せつけばら撒く暴君の、このむなしさと空回り感。


陸凱-忠壮質直

建衡二年(270年)夏口都督の孫秀が出奔し晋に亡命して以降、呉臣の晋亡命が相次いだ。

天璽元年(276年)秋8月、京下督の孫楷が晋に降伏したのをはじめ、当時の晋の記録(「晋書」)には、年に数人の割合で続々と晋に投降してくる呉将の記録が記されている。


ついには鳳凰元年(272年)秋8月、要枢の地西陵を守備していた歩闡が晋に投降。西陵城ごと寝返るという大事件が勃発する。


臣下たちの相次ぐ処刑、粛清、離反。その中で最後まで孫皓を諌め呉を支え続けたのが陸氏一門の陸凱と、陸遜の子陸抗であった。


陸凱は元々軍人としてのキャリアが長かったが、孫皓が即位してまもなく、右丞相万彧と並ぶ左丞相に任じられた


陸凱の諫言は、主として以下の内容になる

北伐には反対。むやみな出兵は国力を損ねる

奸臣は遠ざけよ。何定のような小人は重用しないよう

民衆を休めよ。遷都や宮殿建造、北伐と重税で民衆は農業さえできず困窮している


孫皓の方針とは真逆であり、陸凱とは当然頻繁に衝突することとなる。


三国志「呉書」陸凱伝に「二十項目の上表文」という文章が載っている。

陸凱の諫言に対し孫皓は「あなたの諌めは根本から間違っているのだ」と真正面から否定。

それに対し陸凱は二十項目をあげて孫皓の政策を徹底的に批判し尽くすという内容で、陳寿も


「荊州や揚州の者からよくこの上表文のことを聞かされるので、いろいろ取材してみたが、実際に上表があったことを知る人はいない。

更に、もし孫皓が見たのならそのままに済ませるとは考えられないほどあまりに激烈な内容である。

文章は書いたが上奏はしなかったのか、あるいは死の直前に託したのか、真偽が分からないので本文には載せない。

しかし、孫皓の政策を明らかにして、後世の戒めとするに足るものと考え、本文の後に付載する」



と前置きした上で掲載したいわく尽きの文章である。

また、陳寿も記したように、孫皓の政策とその問題点がなんだったのか、が分かりやすくまとまっている文章になっている。


さらに陳寿は三国志「呉書」に「次のような事件があったという者もある」と、事実は否かは保留した上で陸凱の孫皓廃立計画も記す。

二十項目の上表文と同じく、事実かどうか不明と前置きしながらの掲載は、過剰な装飾や、真偽の分からぬ風評は排するスタンスの陳寿としては極めて異例のことであり、陳寿が陸凱と孫皓、そして呉末期の政情に関して史家以上に同時代人として(正史三国志が校了したのは呉滅亡から十年と経たない時期)大いに関心を抱いている様が伺える。


建衡元年(269年)陸凱は死去。死の直前、孫皓は中書令の董朝を遣わし、申し述べたいことがないかたずねた。

「何定や奚煕は、国家の大事を委ねるに足らない」

「姚信、楼玄、賀邵、張悌、郭逴、薛瑩、滕脩、陸喜、陸抗は社稷の根幹となる人材。彼らに厚いご配慮を」

陸凱はこう答えた。


孫皓は以前から陸凱に不満を持っていたが、重臣である上に陸抗が健在である間は手が出せなかった。陸抗が病死んでから、陸凱の家族を交州へ追放し報復した。


陸抗幼節

当時陸抗は大司馬施績の守備を継ぎ、本拠を楽郷に置いて、信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の各軍を統括する任務に就いていた。

上述した、歩闡と西陵が晋に寝返った時、陸抗はすぐに西陵城に急行。晋の名将羊祜らの援軍と対峙し、二転三転する攻防戦の末、遂に西陵を奪回した(西陵の戦い)。


その後陸抗は、晋の羊祜とは敵同士でありながら、互いに才能を認め合い篤い交わりを結んだ(羊陸之交)。


元より人一倍猜疑心の強い孫皓も、当然この状況を怪しむようになり、ついに陸抗を詰問した。しかし陸抗は、整然と理を説く。


陸抗はいった、「一つの邑、一つの郷においてすら、信義を大切にする人物が必ずおらねばならないのでございます。ましてや大国に信義を守る者がおらずにいてよいものでしょうか。臣がもしこのように晋に対しなかったとすれば、それはただ相手の徳を顕彰してやるに足だけのことで、羊祜にとって何の痛手にもなりません。」


孫皓も一応は、この答えに納得したのだろうか。陸抗はそれ以上咎められることもなく、やがて昇進して大司馬荊州牧に任じられる。


また孫皓は、自分の妹(異母妹。孫和の正妻張氏の娘)を、陸抗の息子陸景に嫁がせており、孫皓にとっても陸抗とその一門は欠かせない人材であったことがわかる。


そんな陸抗は、だが翌鳳凰三年(274年)に死去。死の直前に孫皓に宛てた上奏文で陸抗は

西陵は今、北と西の二方面から敵の圧力をうけている。もし敵が長江上流から軍船で攻め込んできたら、西陵は陥落する

西陵は国家存亡の要であり、国を挙げても対処しなければならない

以前私は西陵に精兵3万を要請したが、送られてきたのは普通の兵だけだった

現在軍の消耗は益々激しく、兵士たちは疲弊しきっている。次に変事あれば、もう対処も難しくなるかもしれない

募兵の制度や兵士の国内配分等を改革し、なんとしてでも西陵に8万の兵を配備してください

私が亡くなりましたら、どうかこの西方の土地に陛下ご自身でお心を十分にお注ぎいただきますよう


と、今の呉の厳しい現実を訴えた。


かつての蜀の地、いまや対呉の前線基地となっていた益州では益州刺史王濬により呉討伐の大船団が建造されていた。

建平郡太守吾彦は、長江上流から流れてくる木屑を見て、晋の軍船建造を知り、孫皓に増援を要請した。


吾彦の求めにも、陸抗の上疏にも、孫皓は何の対応も打たなかった。あるいは打てなかったのだろうか?


上下離心


宝鼎二年(267年)、 孫皓は顕明宮(昭明宮)という巨大な宮殿を建設した。孫皓の政策中、武昌遷都と並んで陸凱を始め臣下たちから最も批判されたのがこれであった。


今まで述べた以外で、三国志「呉書」本文に記されている孫皓の暴虐さは以下の通り。

宴席ではいつも皆を酔いつぶれるまで飲ませ、酩酊時の失態や失言を記録させ、厳罰を与えた。

後宮にはすでに数千人の女性がいたが、更に新しい宮女を入れ続けた。

宮中に川を引き入れ、意に沿わぬ宮女は殺害してその川に流した。

人の顔を剝いだり、目を抉った。

民衆を労役にかり出した


過剰な装飾が少ないといわれる正史本文でさえこれである。注釈に引かれている「江表伝」等ではさらにすさまじい暴虐振りが記されている。 (張布の娘姉妹を後宮に入れた逸話など)


宮中に血と粛清の嵐が沸きおこっているとき、その外もまた疲弊にあえいでいた

賀邵、華覈、陸凱、陸抗らの諌言の多くには、民の疲弊、重税と兵役、女の徴発への言が多数見られる。

孫権死後、軍役が相次ぎ、兵士は疲弊し軍需食料は底を尽き、兵士たちに配給する衣料もない

兵役と土木工事で民衆は農作業をする間もなく、田は荒れ果てている

都の諸官、地方官、派遣された宦官、監察官らがそれぞれ民を徴用し、浪費している

後宮に多数の宮女を召し上げたため、妻を得られない男が多数出て、娘たちの親は怨嗟の声を上げている

民衆が財を奪われ餓えに苦しむ中、豪華な宮殿や建築が建てられている……


1985年、南京郊外の江蘇省江寧県で発掘された西晋時代の墓に、以下の文字が書かれた磚(墓室にはめ込み副葬する、絵の描かれた石)があった。

「姓朱江乘人居上(描)大歳庚子 晋平呉 天下大平」

墓の主人は朱姓、本籍は江乗、上描に住んだ。庚子は呉が滅びた西暦280年のこと。建業近郊の人々でさえも、呉が晋に平定されたことを天下大(太)平と祝賀し、しかもそれを墓に副葬している。呉と孫皓が人々からどれだけ恨まれ見放されていたかを示している。

もっとも、磚は新たな支配者となった西晋への服従を示すために作った物ともいえ、本心から祝賀したかどうかはわからない。

いずれにしても、「晋平呉天下大平」は三国時代の終わりを端的に示しており、2019年に東京国立博物館、次いで九州国立博物館で開催中の「特別展「三国志」」では「世界一短い『三国志』」と評されている(『特別展「三国志」公式図録三国志 THREE KINGDOMS UNVEILING THE STORY』 p244)。


「…こうしたことのため、上下の人心は離れ、誰も孫皓のために力を尽くそうとする者がなくなった。悪事を積み重ねることも極まって、もう天命を継ぐことができなくなっていたからなのであろう」

(三国志「呉書」三嗣主伝)


六路侵攻


279年(晋の咸寧五年、呉の天紀三年)の冬、晋は呉討伐の大動員をかけた。

鎮東将軍・都督徐州諸軍事 司馬伷:下邳から出撃し、涂中(建業対岸)へ進撃

安東将軍・都督揚州諸軍事 王渾:寿春から出撃し、長江南岸の牛渚へ進撃

建威将軍・予州刺史 王戎:項城から出撃し、武昌へ進撃

平南将軍胡奮:江夏から出撃し、夏口へ進撃

鎮南将軍・都督荊州諸軍事 杜預:襄陽から出撃し、江陵へ進撃

龍驤将軍・益州刺史・監梁益州諸軍事 王濬、広武将軍唐彬:成都から出撃し、水軍を率い長江を下る


更に全軍の統括として大都督賈充、 物資輸送を担当する度支尚書張華、

六路20万の軍勢が長江全域に展開し、呉に侵攻した。


寿春から出撃した王渾。かつての魏呉因縁の係争地合肥を横目に南下し、建業に迫った。孫皓は迎撃したが大敗。諸葛靚は敗退し、沈瑩、孫震や丞相張悌は戦死。建業近郊でのあっけない敗北を眼前にし、呉朝は恐慌状態に陥った。


かつての蜀の都、成都から出撃した王濬軍は、大船団を率い長江を進撃した。呉軍は晋の船団を防ぐために、長江に鎖をはり、また船底を破るため錐を水中に設置した。だがこれらも王濬・唐彬軍に突破された。

西陵。かつて夷陵と呼ばれた地。陸遜が劉備軍を撃破した呉の栄光の地。歩一門と陸抗が生涯をかけて守備した要枢の地。280年(晋の咸寧六年、呉の天紀四年)2月、西陵、夷道の城は次々に陥落し、陸抗の子陸晏と陸景は戦死した。


襄陽から出撃した杜預軍。襄陽から江陵へ、71年前に曹操が劉備を追撃した長坂の戦いを想起させる経路で進撃して都督の孫歆を捕虜に。ついで江陵を占領し江陵督伍延を斬った。零陵、桂陽、衡陽などの荊州南郡は、相次いで晋に下った。


王濬・唐彬軍は長江を更に下り、烏林・赤壁の古戦場を通過し、夏口を攻略。ついで王戎と合流し武昌に攻め寄せる。孫権以来の呉の副都武昌も陥落し、江夏太守劉朗と、武昌諸軍虞昺は降伏した。

郭馬の乱鎮定に向かっていた陶濬は晋侵攻を聞き、武昌に戻っていたが、このときの状況を孫皓に上奏した。

「武昌より西では、もう守りに当ろうとする者もない。守りに当らぬのは、軍糧が足らぬからでも、城が堅固でないからでもない。兵士も武将も戦いを放棄してしまったからだ」


かくて、いまだ建平に篭城中の吾彦を除く、巴蜀から建業へいたる長江全域が晋の支配するところとなった。



「王濬・唐彬が行くところ、呉軍は土崩瓦解、防ぎとめようとするものは誰もいなかった」

(三国志「呉書」三嗣主伝)


「陶濬からの上表がありました…

兵士たちが戦いを放棄したからといって、どうして兵士たちを恨めましょう。

…天が呉を滅ぼすのではありません。これは私が自ら招いたことなのです。

死んで土中に葬られたとき、なんの面目があって四人の先帝さまと顔をあわせることができましょう」

(三国志「呉書」三嗣主伝注「江表伝」、孫皓が、母何氏の弟、何植に宛てた書簡)


罪己の書簡


孫皓は、游擊將軍の張象を水軍1万で出撃させるが、張象は晋軍の旗を見るや降伏した。

3月。陶濬は建業に帰還し孫皓に進言した。

「蜀の船はみな小型でございますゆえ、もし二万の兵をお預かりすることができ、大船に乗って戦えば、十分に打ち破ることができます」

孫皓は兵を与え、翌日には出撃することになったが、兵卒達はその夜のうちにみな逃亡してしまった。

かつて曹操を打ち破り、幾度となく襲来する魏の侵攻を跳ねのけ続けた呉水軍はこうして消滅した。


王濬、司馬伷、王渾らが建業近辺に集結し、総攻撃が迫る中、孫皓は薛瑩、胡沖の言を受け入れ、晋の各将軍に投降書簡を送った。


3月15日、 建業に侵攻した王濬に対して、孫皓は降伏した。孫権即位以来51年。時に孫皓39歳。

孫皓は洛陽に護送され、晋帝司馬炎から帰命侯に封じられた。

その4年後の 太康五年(284年)12月、孫皓は洛陽にて死去した。


評價

三国志』きっての暴君として知られる、呉の最後の帝・孫皓。初代皇帝・孫権の孫にあたる。後世に残された暴虐の逸話には、亡国の君主ゆえの誇張もありそうだが、事実無根というわけでもないだろう。


実際、最初期には

•官の倉を開いて貧民に施し

•宮廷で飼っていた鳥獣の解放

•嫁のない男には官女を娶らせる


などなど、評価される政治を行っていた模様。


だがこの孫皓、「無垢な病んだ暴君」という奇妙な印象を受ける人物でもある。


孫皓が、根本的に無能な君主だったとはどうも思えない。といってその行動は、単なる野心や私欲によるものとも見えない。彼の常軌を逸した行動の数々は、非常にピュアな動機であるような気がする。孫皓自身は果たして自分の心の壊れた部分に気が付いていたのか、いなかったのか。


父を大変敬愛していたようで帝位についたあと何度も父を祀っていたという。

孫皓が暴政に走ったのは、父の孫和が一度は皇太子として立てられながらも理不尽に廃立され、無残な最期を遂げてしまったことが原因であるとも言われている。


 『三国志』の著者陳寿は、孫権の廃嫡問題が呉の滅亡の遠因になったと評しているが、注を付けた裴松之はいしょうしは、それに反論する。


裴松之が思うに、孫権は、罪もない息子を勝手に廃して、乱の兆をつくったとはいえ、国の滅亡は、もちろん暴虐な孫晧にその原因があったのである。もし孫権が孫和を廃さなかったなら、孫皓が正式の世継ぎとなって、結局は滅亡にいたったのであって、事態に何の違いがあったであろう。


しかし、父孫和が廃嫡されることなく、順当に世継ぎとなるような健全な環境であったなら、孫晧の、これほどまでに人の心を信じられない、病的な性格が形成されることはなかったのではないか。呉が滅亡しなかったかどうかはともかく、暴君と呼ばれるような存在にはならなかったのではないか、と思えてならず。


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