カースト
かーすと
※本項目ではヒンドゥー教における種姓制度について説明します。『黄金の太陽 失われし時代』に登場するキャラクターについてはカースト(黄金の太陽)を参照してください。
概要
ヒンドゥー教におけるカーストとは、ヴァルナ(大まかな階級)と
ジャーティ(細分化された職業)によって成っている。
ヴァルナ
これらは親のカーストによって決まり、基本的に生涯固定である。
カーストごとの仕事をせず、他の仕事をすることは、たとえそちらのほうが上手くできたとしても禁じられている。
また、因果応報・輪廻転生の考え方から、カーストは生前に身分に応じて善業を積めば、生まれ変わった際に上がり、逆に悪業を積めば下がるとされている。
仕事の不自由意外でも、シュードラや、カーストに収まることができなかったアウトカーストの人々への扱いはあまりにも過酷であり、イスラム教や仏教、キリスト教などへの改宗の理由にもなっている。
歴史
聖典リグ・ヴェーダにある神話によると、原人プルシャの口からバラモン、両腕からラージャニヤ(クシャトリヤ)、両腿からヴァイシャ、両足からシュードラが生まれた。
カースト制度は最初からあったのではなく、時代を経て形成されていっており、上記の神話を描いたプルシャ・スークタ(原人の頌)もリグ・ヴェーダの中では成立の新しい層に属する。
後代にまとめられた叙事詩マハーバーラタでも基本線はカースト支持だが、聖仙の口からも様々な異論が唱えられているのが見られる。が、時代がすすむにつれ、そうした異伝承の影響力は薄れ、カースト固定は進行していった。要は、世界中で見られる「親から子への職・身分の継承」が極端化したのが、インドのカーストと言える。
社会政策、職業安定という効用も一応あった。実際、聖者として名高いマハトマ・ガンディーも、カーストには肯定的で、その理由の一つが「カーストは優れた分業制度であり、人々の生活の安定につながる」というものであった。
しかし、結局の所、それは恵まれた者の傲慢さに過ぎない(ガンディーは、かなり高位のカーストの出であった)。実際に苛烈な差別を受ける人々は現実に存在ている故、カーストはヒンドゥー教社会の枠組みであると同時に、他宗教、無宗教の人々から苛烈な批判を受けるウィークポイントでもある。
歴史学上での、西方からやってきたアーリア人が先住民を侵略制圧し、階層化した、という説も心に痛いものである。そのためインド・アーリア移住(侵略)説を否定する試みがヒンドゥー教徒からされたり、各カーストを生まれの階級ではなく、各個人の資質によるもの、という解釈もされており、英語のネット上でもよく見かける。
実際のところ、現在のインド人のDNAを調べてみても、カーストの違いによって、民族が違うということはあまりに無い。そもそも、インドという地は、様々な民族が入り乱れた歴史を持っており、アフガニスタンやモンゴルなど、外来の民族が支配した時代も長い。そのため、現代のインド人で、もはや純血のアーリア人など存在しない。
歴史上、ヒンドゥー教内にもカーストを相対化する動きが無かったわけではない。現在でもカーストを問わないヒンドゥー団体が複数存在する。
外国人のジュリア・ロバーツがヒンドゥー教に改宗し、そのまま現在の仕事を続けられているのも(改宗者は本来シュードラになる)、上記の事柄が背景にあるものと思われる。
法律
インドでも法律上では1950年にカーストは禁止されている。しかし、長年根付いた差別意識をぬぐい去るのは簡単ではなく現在も様々な問題が積み残されている。
「産まれたあとにカーストは変更できない」「現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて来世でよいカーストになれるよう上位カーストに忠誠をつくして生きるべき」というカーストの価値観が根強くそのため下層カーストに位置づけられる人々自身もなかなかそこから脱却できないという強い心理的な拘束を産んでいる。
そのため下級カーストとされる家に産まれると十分な教育を受けられず、悪循環が止まらず、様々な社会問題に繋がったり外国から非難されているため、インド政府も対応に苦慮しつづけている。
しかし近年においては、新たな職業の登場により旧来のジャーティには収まらなくなってきており、典型的なのがITエンジニアで、カーストを意識することはあってもは差別は無いとされ、実力主義となっているという。
また、都市部ではカーストの意識は大分薄れてきているようで、ヒンドゥー教徒でも自身のカーストを知らないという人も多いという。しかし村落ではいまだに根強く、特にダリットは村のはずれにまとまって住み、他のカーストと接さないようにされている。ダリットが殺されても、警察が捜査しないということも、未だに起こりうる。