概要
パブリカ(Publica)はトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)が生産し、トヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)が販売した小型乗用車・貨物車。
初代モデルは1955年に日本経済新聞が報じた通産省の構想だった(実際には公式に発表されなかった)「国民車構想」の影響を受け、トヨタが開発した。
車名の「パブリカ」は大衆車という意味を込めた和製英語であるPublic Carを略した造語であったが、よくパプリカと誤記された。ちなみにこの名前は一般公募によって決められたものである。
初代P1#/2#型(1961 - 1969年)
本車のために開発されたU型エンジンはトヨタ唯一の空冷エンジンであり、水平対向2気筒697ccである。当初は500ccで構想されていたエンジンを、建設が始まっていた高速道路を余裕をもって走れるよう、700ccに拡大。軽合金部品の多用で軽量化を徹底し、大型プレス部品を使ったボディ構造で精度や生産性も向上させた。
トヨタはこの車種の生産のため、「パブリカ専用」の元町第二工場を建設。全国に「パブリカ店」(現在のカローラ店)という専門ディーラーを立ち上げるほどの力の入れようで、1961年6月に発売を開始。「パブリカにはじまって、パブリカにつきる」というキャッチコピーの広告を打ち、森永乳業との大型キャンペーンを打った。
しかしクルマとしての基本性能は良いものの、コストダウンのため装備を極力シンプルにした結果、ラジオ、ヒーター、燃料計、サイドミラーがない(当時の保安基準では合法であった)など、あまりにもないないづくしであった。抑揚に乏しい平板なボディ、メッキやモール部品を省いた質実剛健なスタイリングも、軽自動車のデラックス化が進みはじめた当時にあって、大衆の目にはあまりにも貧相に映り、販売不振に陥った。
1962年にトヨグライド式のセミオートマチック車を導入した。1963年にリクライニングシートやラジオ、ヒーターなどの装備を搭載、メッキ部品やモールで豪華さを演出したデラックスも導入し、ようやく売れ行きが上向いた。同じく1963年にはコンバーチブル(オープンカー)を追加発売、1965年にはこれをベースにした小型スポーツカーのトヨタスポーツ800を発売した。
1966年に(フルモデルチェンジに近い)大幅なマイナーチェンジが行われ、フロントフェイスがスラントしたモダンなスタイリングになった。エンジン排気量が800ccに拡大したうえコンパーチブルタイプにはヨタハチと同じタイプのエンジンが搭載され、1967年にスタンダードの価格がが35.9万円となり、1ドル=360円の固定レートだったことからトヨタは「1000ドル(当時のレートで36万円。ちなみに大学卒業者の初任給はおよそ26500円)でパブリカは君のものだ!!」と値頃感をアピールした。
2代P3#/5#型(1969- 1978年)
1969年4月に2代目にモデルチェンジ。スタンダードのみ空冷800ccエンジンは残ったものの、主力は初代カローラの水冷1100ccエンジンのボアを縮小した水冷4気筒の1000ccとなる。大衆車からエントリーカー路線に転換した。また、トヨタがダイハツと提携したことにより、パブリカと同じボディのコンソルテが発売された。エンジンはダイハツ製1000ccエンジンが搭載された。
1972年、前部をフラットデッキに、後部を非ハッチバック構造にしたままファストバックにした。これに合わせ空冷800ccエンジンのモデルは乗用車排出ガス規制のクリアができないため廃止となった。
1973年に派生車種としてパブリカ・スターレットが登場、こちらもコンソルテの1バージョンとして発売された。
1977年11月にコンソルテが販売終了し、ダイハツの完全自社自主開発車であるシャレードに引き継がれた。そして1978年2月、パブリカ・スターレット改めスターレットが2代目にモデルチェンジしたのを機に乗用車モデルの製造・販売を終了した。
貨物モデル
初代の途中以降、バン及びピックアップトラックもラインナップに加わっている。2代目のピックアップトラックに関しては1988年まで製造・販売され、競合車種のサニートラックとともにカーマニアに愛されている。
登場作品
アキハバラ電脳組:主人公の父親トキジロウの愛車として登場。