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パブリカ

ぱぶりか

トヨタ自動車が製造・販売を行っていた小型乗用車。ここでは、2代目のバリエーションのひとつだったダイハツ・コンソルテについても述べる。
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概要

パブリカ(Publica)はトヨタ自動車工業が生産し、トヨタ自動車販売が販売した小型乗用車・貨物車。なお、これら2社は1982年に対等合併し、現在の体制であるトヨタ自動車となっている。


初代モデルは1955年に日本経済新聞が報じた通産省の構想だった(実際には公式に発表されなかった)「国民車構想」の影響を受け、トヨタが開発した。


車名の「パブリカ」は大衆車という意味を込めた和製英語であるPublic Carを略した造語であったが、よくパプリカと誤記された。ちなみにこの名前は一般公募によって決められたものである。


初代P1#/2#型(1961 - 1969年)

本車のために開発されたU型エンジンはトヨタ唯一の空冷エンジンであり、水平対向2気筒697ccである。当初は500ccで構想されていたエンジンを、建設が始まっていた高速道路を余裕をもって走れるよう、700ccに拡大。軽合金部品の多用で軽量化を徹底し、大型プレス部品を使ったボディ構造で精度や生産性も向上させた。


実は、元々はFF車として開発されかけたのだが、当時の技術面やトヨタの開発能力ではとてもじゃないが対処出来ない、と言うことからFR車で開発が進行、そして完成した。結局トヨタがFF車を市場に出すのは、1978年のターセル&コルサを待たなければならなくなった。


トヨタはこの車種の生産のため、「パブリカ専用」の元町第二工場を建設。さらには全国に「パブリカ店」(後に大部分がカローラ店に転換)という専門ディーラーを立ち上げるほどの力の入れようで、1961年6月に発売を開始。「パブリカにはじまって、パブリカにつきる」というキャッチコピーの広告を打ち、森永乳業との大型キャンペーンを打った。ただしパブリカ店をすぐに展開する訳にはいかなかった地域も存在しており、そういった地域ではパブリカ店が立ち上げられるまではトヨタ店トヨペット店で売ってもらっていた。


しかしクルマとしての基本性能は良いものの、コストダウンのため装備を極力シンプルにした結果、ラジオ、ヒーター、燃料計、サイドミラーがない(当時の保安基準では合法であった)など、あまりにもないないづくしであった。抑揚に乏しい平板なボディ、メッキやモール部品を省いた質実剛健なスタイリングも、軽自動車のデラックス化が進みはじめた当時にあって、大衆の目にはあまりにも貧相に映り、販売不振に陥った。


1962年にライトバンやトヨグライド式のセミオートマチック車を導入した。また、東京都のパブリカ店のひとつであったパブリカ朝日(後のトヨタ東京カローラ、2019年4月に事実上廃業)による、メッキ部品加飾・ラジオやヒーターの装備を行った特別仕様車を設定したところ、これがもの凄く好評だったことから、1963年にこのパブリカ朝日特別仕様車にリクライニングシートも搭載したデラックスを全国販売に踏み切った。そして、これでようやく売れ行きが上向いた。

同じく1963年にはコンバーチブル(オープンカー)を追加発売、1965年にはこれをベースにした小型スポーツカーのトヨタスポーツ800を発売した。

また、1964年にはピックアップトラックも追加されている。


1966年に大幅なマイナーチェンジが行われ、フロントフェイスがスラントしたモダンなスタイリングになった。エンジン排気量が800ccに拡大したうえコンパーチブルタイプにはトヨタスポーツ800と同じタイプのエンジンが搭載されている。さらに1967年にスタンダードの価格が35.9万円となり、1ドル=360円の固定レートだったことからトヨタは「1000ドル(当時のレートで36万円。ちなみに大学卒業者の初任給はおよそ26500円)でパブリカは君のものだ!!」と値頃感をアピールした。


2代P3#/5#型(1969- 1978年)

1969年4月に2代目にモデルチェンジ。スタンダードのみ空冷800ccエンジンは残ったものの、主力は初代カローラの水冷1100ccエンジンのボアを縮小した水冷4気筒の1000ccとなる。これにより大衆車からエントリーカー路線に転換した。また、トヨタがダイハツと提携したことにより、パブリカと同じボディのコンソルテが発売された。エンジンはダイハツ製1000ccエンジンが搭載された。なお、「コンソルテ」とは、イタリア語で提携という意味。まさに当時のダイハツの複雑な立場を表した(というよりは皮肉ったか?)言葉ではある。ただその一方で、これまでのダイハツの生産ラインはあまりにも非効率的であったため、このコンソルテを生産することになった際トヨタからのエンジニアの出向を受け入れ、トヨタ流の生産システムを取り入れた。その結果、効率の良い生産が出来るようになったので、ダイハツは自動車メーカーとしてステップアップすることが出来たという。

イメージキャラクターについては、販売元の立ち位置によって異なっており、エントリーカー路線であったパブリカは石坂浩二を、ラインナップの最上級車ゆえ大衆車路線を取らざるを得なかったダイハツはケーシー高峰を、それぞれ起用した。


1972年、前部をフラットデッキに、後部を非ハッチバック構造にしたままファストバックにした。これに合わせ空冷800ccエンジンのモデルは乗用車排出ガス規制のクリアができないため廃止となった。


1973年に派生車種としてパブリカ・スターレットが登場、こちらもコンソルテの1バージョンとして発売された。


1977年11月にコンソルテが販売終了し、ダイハツの完全自社自主開発車であるシャレードに引き継がれた。そして1978年2月、パブリカ・スターレット改めスターレットが2代目にモデルチェンジしたのを機に乗用車モデルの製造・販売を終了した。


貨物モデル

初代の途中以降、バン及びピックアップトラックもラインナップに加わっている。2代目のバンとピックアップトラックは日野自動車羽村工場で作ってもらっていた。さらに2代目のピックアップトラックに関しては1988年まで製造・販売され、競合車種のサニートラックとともにカーマニアに愛されている。


登場作品

アキハバラ電脳組:主人公の父親トキジロウの愛車として登場。

TRICꞰ:初代後期型が上田次郎の愛車として登場。


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