概要
西暦750年から1258年ごろまで存在したとされる国家。ムハンマドの親族としてカリフとなったアッバース家の当主が中東諸地域を統治したもの。つまり宗教上の教主と世俗の帝王が同一人物である教団国家である。先代のウマイヤ朝がアラブ人の特権を前提に成立したのでアラブ帝国とも呼ばれるのに対し、イスラム教徒は平等であることを謳ったのでイスラム帝国とも呼ばれる。最大領土は現在の西アジア、北アフリカ、西南ヨーロッパにまで及んだ。
歴史
イスラム教の開祖、ムハンマドが世を去ったのち、イスラム教団ではカリフという代理人を置くことになった。カリフは預言者ムハンマドの代理人として行政を統括し、イスラム法学者(ウラマー)たちが合議によって定めた教義を信者に順守させる権限を持つ。4代に渡ってこのカリフがイスラム教団を治めてこれを正統カリフ時代とも呼ぶ。だが、暗殺された第3代ウスマーンの親族であったウマイヤ家が、第4代アリーを暗殺の黒幕とみなして戦いを挑み、ついには自らカリフを称した。これがウマイヤ朝である。アリーはほどなく暗殺され、ウマイヤ朝がイスラム教団を率いるカリフとなった。しかしこのカリフ選出には異論が多かった。アリーの支持者はシーア派と呼ばれてウマイヤ朝と戦いを続け、またアラブ人としての特権を持たないイスラム教徒の反乱も起こった。
アッバース家のサッファーフはムハンマドの親族の血筋であり、もろもろの反乱勢力を統合してカリフと認められ、ウマイヤ朝に挑む。この勢力統合には、非アラブ人のイスラム教徒であって大きな勢力を有するペルシア人の協力が必須であり、アラブ人への年金停止と非アラブ人だけに課せられた人頭税の廃止が行われ、イスラム教徒間の平等が確保された。サッファーフは750年のザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝の軍勢を壊滅させ、ウマイヤ朝の首都ダマスカスを占領してウマイヤ家をほぼ皆殺しにした。ただし、残党の一部はスペインに逃れて後ウマイヤ朝を創始した。また、ウマイヤ朝滅亡後はシーア派は厳しく弾圧されることになった。第2代カリフのマンスールは首都としてバグダッドを建設し、第5代ハールーン・アッ=ラシードの時代に全盛期を迎えた。バグダッドは人口150万人ともいう世界最大の都市となり、全ユーラシア経済の中枢ともなった。この当時にアラビア・ペルシャ各地の伝承がまとめられて生まれた説話集が、『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』である。
ハールーン・アッ=ラシードの死後はカリフ位をめぐる後継者争いが深刻化し、地方の武将が自立して独立王権を築くようになってアッバース朝の領域は縮小していく。945年にシーア派のブワイフ朝がバグダッドを占拠して世俗上の支配権を奪い、カリフには宗教的な権限しかなくなってしまった。アッバース朝カリフはセルジューク朝やホラズムといった勢力とあるいは同盟して軍事力を利用し、あるいは対立して政治的支配権を取り戻そうと争う。そして最期には1258年、モンゴル帝国のバグダッド侵攻によってアッバース家はほぼ皆殺しとなり、滅亡した。だがその親族がエジプトに逃れて、マルムーク朝のバイバルスによってカリフとして遇された。1517年、オスマン帝国に滅ぼされるまで、エジプトに名目上のカリフが存在し続けることとなった。
文化
イラン東部は正式な建国前の747年にはアッバース家側の総督が制圧していた。その部下、ズィヤード・イブン・サーリフは751年、唐の将軍高仙芝とタラス川の岸辺で戦った。当時の東西大国の決戦であり、これをタラス河畔の戦いと呼ぶ。戦はアッバース朝の勝利となり西域のイスラム化が進んでいく。同時に唐軍の捕虜によって製紙法がイスラムに伝わり、後に欧州にも伝播して印刷技術発展の礎ともなった。
第7代カリフのマアムーンは、「知恵の館」という図書館を建設してギリシャ語の科学文献を大量にアラビア語に翻訳させた。以後、アラビア人において科学研究が盛んになった。例えばアラビア数字は現代まで使われている数字記法となり、医学では患者の状態をよく観察し衛生や薬の処方を行う実践的な医術が発展した。イブン・アル=ハイサムは眼の機能を調べ、光を集めることでモノが見えるという原理を発見した。他に光が屈折することも発見し、「光学の父」と讃えられる。またイブン・アル=ハイサムが行った科学的な実験の方法は、のちの世界各国の科学者たちに大きな影響を与える。