概要
元は三河(現在の愛知県)の出身だといわれる。
『甲陽軍艦』によれば、その容貌は隻眼で片足が動かなかったという。
武者修行で諸国を放浪した末に武田信玄(当時は晴信)に仕官し、足軽大将として活躍。
諸国放浪で得た見識と天才的軍略で信玄を支えた。また、政治面でも実力を発揮し、優れた築城術を見せたり、分国法制定の献策をしたとも伝わる。真田幸隆とは懇意の仲だったという。
しかし、上杉謙信との川中島の戦いで討たれて戦死したという。
勘助を架空の人物と疑う説もあるが、彼と思しき史料が多数あり、未だはっきりしない。
甲陽五名臣(武田四天王とは別)の一人に挙げられる。他の四人は信虎の時代から活躍した前線指揮官であるのに対し、勘助だけはその用兵や築城技術を買われて晴信に登用された人物である。