1955年から65年にかけて、二等・三等座席車、〃寝台車、食堂車、荷物車、郵便車が製造された。
概要
戦前から延々続いた設計手法からの脱却がなされた、新世代の客車である。
1950年代の急速な経済発展の結果伸び続けた輸送需要に応えるべく、限られたリソースでの輸送力の増強のため徹底的な軽量化が目指された。
座席車は無論寝台車でも、二等・三等車いずれも自重32.5t以下(記号"ナ")で、従来の同規模の客車より1~2クラス軽くなるなど、画期的とも言えるレベルの仕上がりであった。
ただし、全体的な改良が図られたのは車体構造と内装のみで、暖房や電源などは従来どおり蒸気暖房に車軸発電機といった具合で、例えば同じ時期に登場した90系電車や20系客車のように従来の車両と混用しない前提でのシステム全体の刷新は成されなかった。
これは、10系客車の場合は従来の車両との共用を想定していたためである。
構造 機構
車体
それまでの客車は、台車の上に台枠という頑丈な基礎があり、その上に車体が作られた。
台枠は、乱暴な言い方をすれば貨車である長物車やコンテナ車の車体のようなもので、この頃の日本の客車は台枠という基礎のうえに車体を『建てる』ような構造だった訳である。
これは、鉄道車両が木造だった頃から延々続けられていた構造であったが、車体そのものの設計の自由度は高くなるものの、重量がかさむという欠点があった。
対する10系客車の車体は、モノコック構造と呼ばれるもので、外板や床などの板状の部材にも強度を担わせて車体という箱全体で強度を確保する代わりに台枠(に相当する部材)を簡素なものにしている。
これは、スイス国鉄の軽量客車(Leichtstahlwagen)を参考に設計されたという。
また、窓は欧州の車両のように天地方向に大きくなり、開口部の四隅は丸みを帯びた形となった。
10系客車では、従来の車両で台枠上の左右両端に2本、中寄りに2本あった梁のうち中寄りの2本を省略して骨組を梯子状とし、床を構成する部材に縦方向への曲げ強度が強い波型材を使用して必要な強度を確保している。とはいえ、この設計では完全に台枠がなくなった訳でもないため、純粋なモノコック構造ではなく「セミモノコック構造」とされることが一般的である。
また10系客車は、外板厚を従来の2.3mm→1.6mmへと減少させているが、それでも必要充分な強度は確保できるとされた。
車内
内装に使われる金具類、つまり帽子掛などは従来車の砲金から軽量なアルミニウム合金製に変更された。
また、内装板は白系の樹脂板となり、大きな窓と相まって旧来の車両の木材(日焼けで深い色合いとなる)にニス塗りの車内より明るい印象となった。
- 1960年代には、旧来の車両にも体質改善工事が施工されて、座席枠を薄青、壁面をクリーム色塗って印象を近づけている。
台車
座席車には軽量化を狙って新たに開発されたTR50が、寝台車その他の車両にもその派生型が使用された。
戦後に開発されたTR37系列の場合は1台車あたり6トン近くに達したが、TR50で4トンと、しめて2~3割は軽くなったことになる。
とはいえ、このTR50。座席車による通勤通学列車を見込んでばね定数を大きく取ったものの、それが祟って乗り心地がよろしくなくなったそうである。特に車体が軽い10系客車の場合、空車/積車状態の重量変化の比率が大きくなるため、影響が顕著であった。
終焉
本車の調達が進められた1950年代末~60年代は、動力近代化が進められていた時期で、1959年には早くも座席車の製造が終了。またその余波で、新型や状態の良い車両を優等列車に廻すというセオリー通りにならずに新車から普通列車に充当されたものもあった。
1970年代には早くも状態が悪い車両が出始めている。
外板厚が3割程度減らされていたが、これは結果的に腐蝕による肉痩せや金属疲労による強度低下を勘案した上で充分であったかは疑問が残る。しかしながら、外板をも構造体とするモノコック構造では、外板の状態の良し悪しも車体強度に反映されるため、状態が余りにも悪くなれば使用できなくなる。
特に、1段下降窓であった寝台車では、窓の下部から侵入する雨水による腐食対策が不十分だったため状態悪化が顕著であった。
- 時代が下ると高い強度と優秀な耐候性を持つ車両用耐候性高張力鋼板が開発された。
最終的に座席車、寝台車ともに1985年のダイヤ改正で運用から退き、JR東日本で事業用車として最後まで車籍が残っていた2両も1995年に除籍された。