歴史
チーム名の「パールス」(Pearls)は「真珠」の意味で、伊勢湾の真珠養殖に由来する。
球団初年度は最下位だった。
1951年は6位の東急と0.5ゲーム差で2年連続の最下位。
108試合制の1952年は勝率.278と3割にも満たず3年連続最下位で藤田省三は辞任。
芥田武夫を新監督に迎えた1953年は、結果的には4年連続で最下位に沈むも、前年から大きく借金を減らした。
高橋ユニオンズが加わり8球団となった1954年は、首位の西鉄に16ゲーム離されながらも8球団中4位で、球団史上初のAクラスとシーズン勝ち越しを決めた。
しかし打線はチーム本塁打数がリーグ最下位であるなど極端な貧打であり、1955年は8球団中5位だったものの上位4チームには20ゲーム以上離された。(4位の阪急とはちょうど20ゲーム差。)
1956年も西鉄・南海・毎日・阪急の上位4球団の牙城を崩せず2年連続の5位。
高橋ユニオンズが大映スターズと合併し大映ユニオンズとなった1957年は7球団中6位。シーズン途中で芥田が休養し、加藤久幸が代行として指揮を執った。なお、この年最下位になった大映は毎日と合併し、大毎オリオンズとなり、以後は6球団となった。
6球団となった1958年はユニフォームをリニューアルして臨んだが、開幕直後から最下位を独走。あわや100敗目前、勝率も.238、首位の西鉄に50ゲーム近くも離されるなど惨憺たる成績で5年ぶりの最下位で加藤は無念の辞任。
シーズン終了後、巨人から千葉茂を招聘。千葉の現役時代の愛称「猛牛」からチーム名を「近鉄バファロー」へと改め再出発を図ることとなった。
年 | 順位 | 勝敗 | 首位とのゲーム差 | 監督 |
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1950年 | 7位 | 44勝72敗4分 | 37.5 | 藤田省三 |
1951年 | 7位 | 37勝56敗5分 | 33.5 | 藤田省三 |
1952年 | 7位 | 30勝78敗0分 | 40.0 | 藤田省三→芥田武夫 |
1953年 | 7位 | 48勝69敗3分 | 22.0 | 芥田武夫 |
1954年 | 4位 | 74勝63敗3分 | 16.0 | 芥田武夫 |
1955年 | 5位 | 60勝80敗2分 | 39.0 | 芥田武夫 |
1956年 | 5位 | 68勝82敗4分 | 29.5 | 芥田武夫 |
1957年 | 6位 | 44勝82敗6分 | 38.5 | 芥田武夫→加藤久幸 |
1958年 | 6位 | 29勝97敗4分 | 49.5 | 加藤久幸 |
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近鉄パールス→近鉄バファロー→近鉄バファローズ→大阪近鉄バファローズ