歴史
創設から低迷していた近鉄パールスは球団改革に踏み切り、巨人から千葉茂を監督として招聘。チーム名も「パールス」から千葉の愛称「猛牛」に因んで「近鉄バファロー」へと改めた。また、岡本太郎がデザインした「猛牛マーク」もこの年に誕生した。
心機一転を図った1959年だったが、シーズン途中に千葉が病気のため一時休養。投手コーチの林義一が代理で指揮したが不調は止まらず結局最下位に終わった。
1960年は他球団とのトレードを積極的に行い最下位脱出を図るが、結果的には前年とほぼ変わらない結果になり最下位。
そして1961年は開幕から黒星を積み重ねていき、最終的にプロ野球ワースト記録の103敗を樹立。勝率は.261で、優勝した南海には実に51.5ゲーム、5位の阪急にも18ゲームも離される有様であった。
この責任を取り千葉は監督を辞任。千葉の辞任後、球団は「これからは全員が猛牛にならないといけない」として、チーム名を複数形の「近鉄バファローズ」へと改めたのであった。
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近鉄パールス→近鉄バファロー→近鉄バファローズ→大阪近鉄バファローズ