プロフィール
ゲッペルス?
読みにくさ故か、日本語ではしばしばゲッ「ペ」ルスと半濁音が書き間違えられる事がある。
概要
ドイツの政治活動で身を立てた「プロパガンダの天才」などと異名を持つ優秀な政治家。
ヒトラー政権下では国民啓蒙・宣伝大臣としてドイツ国民に親ナチス精神のプロパガンダを植え付けにた功労者で、同時にヒトラーの忠臣中の忠臣ともいうべき人物。
生涯
1897年にドイツの小都市ライトに生まれる。
両親は熱心なカトリック信者で、将来は聖職者になることを望んでいたのだが、幼少期のゲッベルスは病弱で4歳の頃に小児麻痺を患い、生死の境をさ迷う。
幸いに命は取り留めたのだが、手術の後遺症で足がやや不自由になり、それが原因で学校でイジメられるなど、不遇の少年時代を送る。
この時に社会の不条理を痛感し、神を一切信じなくなったが、コンプレックスを克服するがごとく勉強に熱中し同級生から一目置かれるまでに見返す。
無論イジメられた経験を忘れてはおらず、ディベートや陰口、密告を駆使して蹴落としていたらしい。
大学に進学してもコンプレックスから恋人作りに邁進。学業を疎かにしたわけではなく、博士号を取得するが就活は難航。
恋人のコネでドレスデン銀行ケルン支店に就職するが、職務怠慢でクビになり、博士号を持ちながら実家の穀潰しというニート同然の生活を送る。
この時に反ユダヤ思想に感化されており、1925年には非公式ながらナチスに入党する。
だが最初からヒトラーに心酔していたわけではなく、グレゴール・シュトラッサー率いる派閥に属していた。
というのも1920年代はナチス党内におけるヒトラー独裁体制は確立されておらず、北ドイツのヒトラー派、南ドイツのシュトラッサー派に別れていたのだ。
だがバンベルク会議で独裁体制が成立すると、シュトラッサー派は急速に失速する。その中でゲッベルスはヒトラーに手厚くもてなされ、彼に心酔していくこととなる。
1931年には結婚するが、女癖は治らなかった(下記参照)。
1933年。ヒトラーの首相就任に伴い、宣伝大臣に就任。
焚書に始まり、当時最先端の情報伝達手段であるラジオに目を付け、安価な『国民ラジオ』を開発。映画を用いたプロパガンダ活動に邁進する。
そしてヒトラーの領土拡大政策に伴い第二次世界大戦(太平洋戦争)が勃発。
元々ドイツは資源が少ないため長期戦になると終わりだと悟っていたゲッベルスは戦争反対の姿勢をとっていたが、開戦してしまったものは仕方なく、宣伝大臣として後方支援に回る。
が、スターリングラード攻略失敗からドイツは負け始め、国民の洗脳が難しくなってくる。
そして1943年2月18日。有名な総力戦演説を敢行。
ラジオもフル稼働し何とか国民の意識をつなぎ止める。
ナチス敗北が迫る1945年。家族と共に総統地下壕に避難。
ゲーリングやヒムラーといった最高幹部がヒトラーを見限る中で、ゲッベルスは最後までヒトラーに従おうとしており、エヴァ・ブラウンとの結婚の際の立会人も勤めるも、4月30日にヒトラーとエヴァ・ブラウンは自殺。ヒトラーが遺言で彼を首相にするようにと命じられる。
ゲッベルスは首相権限において条件付き降伏を連合国に提案したが一蹴されて絶望。無条件降伏したドイツでは自身は辱しめられた上で殺され、妻子は終生迫害を受けると考えたゲッベルスは5月1日、妻のマグダに子供たちへ毒を飲ませて殺し、2人もすぐに彼らを追うように銃で、この世を去った。
遺体はガソリンで焼却することで隠匿が図られるも、ソ連軍に見つかり検死解剖の後に火葬。遺骨はエルベ川に散骨された。享年47才。
宣伝思想・方法
彼の宣伝概念は、ヒトラーの著書『我が闘争』を踏襲しており、あくまで宣伝を成功させることにこだわっていた。
いわゆる「大衆の多くは無知で愚かである」「大衆は忘れる事はきわめて多いが、理解することは極めて少ない」というもの。
実際、「大衆を獲得するために役立つならどんな手段を使ってもいい」と自ら語っている。
特に有名な方法は、「大衆の怒りや闘争心といった攻撃的な感情を煽る」と言うやり方で、かの『総力戦布告演説』もこの方法が使用されている。
しかし、彼の宣伝方法は「現実から乖離した宣伝は国民と兵士の軽蔑を買う」としてあくまでも現実に則したものであることを前提としていた。総力戦演説も、スターリングラードの戦いで破れ苦境にあることを認め、国民に危機感を持たせ更なる奮起を促したものである。
夫婦生活とプレイボーイ
女性関係でいろいろ問題を持ったといわれ、一度離婚している。だが2番目の妻・マグダの下で6人の子供(彼女の連れ1人も養子に迎えられている)を持つようになり、ナチスの思想をもとに大切に、仲良く育ててきた様子は、まるで模範のようなドイツ人の家庭だとしてそれを国家全体に宣伝した。
ただし、彼の奔放な女性関係は再婚後も治らず、レニ・リーフェンシュタールと対立したり、女優のリダ・バーロヴァと関係を持った際には、「宣伝大臣を辞任して同盟国である駐日本大使となり、バーロヴァと共にドイツを去りたい」とヒトラーに申し出たほど。当然、これは許されるわけもなく、ヒトラーはゲッベルスにバーロヴァとの手切れを、妻には結婚生活の継続を命じるという前代未聞のスキャンダルへと発展した。
マグダの方もなかなか激しい男性遍歴の持ち主で、かつてはシオニストと交際し、パレスチナへの移住を夢見ていたり、富豪と結婚して多額の慰謝料をせしめ、ゲッベルスと同時に二股をかけていた恋人は銃殺されかけている。
思想のベクトルにはあまり頓着がなく、ファナティックでマッチョなものにひかれやすかったようだ。
ちなみに先述のマグダの連れ子のハラルトは空軍の軍人になり、早い段階でイギリスの捕虜となったため一族の中で唯一生き残っている。