逸見政孝
いつみまさたか
概要
1945年2月16日生まれ、1993年12月25日没。
昭和後期から平成初期(1978年~1993年)に活躍したアナウンサー・タレント・司会者。
芸人あしらいの上手さで知られ、同時期に活躍した久米宏らとともにタレント的な人気を博したアナウンサーのはしり的な人物だった。元々はフジテレビの局アナウンサーだったが、1988年に独立してフリーになった。
人物
大阪出身で元々大阪弁を話していたが、方言を矯正するための努力(アクセント辞典の丸暗記等)を重ね、ハンデを克服。アナウンサーになってからは関西弁を口にすることはなかった。なお、やしきたかじんはこの事で「大阪を捨てたヤツ」として敵視していたらしい(上岡龍太郎も同様の理由で彼を嫌ってたが、後述の理由で意見を改めている)。
若手時代は目立つ人物ではなかったが、大橋巨泉は当時からいずれ大成する人物と見込んでいたという。スポーツキャスターとして絶叫調のアナウンスで頭角をあらわす。1984年の『夕やけニャンニャン』予告コーナー司会者に抜擢され、片岡鶴太郎やとんねるずとの当意即妙なやりとりが注目を集めた。このコーナーで逸見のお茶目なキャラクターが認知され、真摯で真面目な人柄とのギャップで一躍人気司会者の仲間入りをする。
しかし、1987年には勤続20年に達したことでフジテレビ内で管理職扱いになりアナウンスの仕事が減ってしまい、「生涯一アナウンサーでありたい」という思いから翌年退社、フリーランスのアナウンサーとなる。「いっつみい」(苗字の「逸見」と「It's me」をかけたもの)の愛称で親しまれ、『たけし・逸見の平成教育委員会』等複数の冠番組を抱え、NHK・民放各局で司会者・キャスターとして活躍した。
また、東京進出してきた若手時代のダウンタウンをかわいがっていたという。
一方で自身の冠番組『いつみの情報案内人 素敵にドキュメント』では、やらせが発覚すると自ら責任を負う形で降板を決意する程の徹底ぶりだった。
司会者としてどんな大物が出演していても捌けるという手腕の高さを発揮し、数多くの人気番組を支える等、その仕事ぶりは順風満帆に思われ、遠からず名司会者として大成すること間違い無しとする見方も強かった。しかし1993年初春頃にスキルス癌(※)に身体を蝕まれている事を、同年9月6日の記者会見にて発表。翌日より全ての仕事を休止した。
この時期は10月度の各民放改編の広報発表も済ませたタイミングだったのもあって、彼が出演予定だった番組の司会が急遽次々と差し替えられることとなった。
休止した仕事(番組)の一つに上述したように逸見を嫌っていた上岡龍太郎とのダブル司会だった『逸見のその時何が!』もあったが、共演した上岡はこの番組で彼を再評価するようになり、わだかまりも溶けつつあった中でのあまりにタイミングの悪すぎる癌告白だった。そのため、逸見の降板が決まると「逸見さんが抜けるなら自分も抜ける」と上岡も降板を申し出ており、後番組の『迫って!GABURI。』は司会が島田紳助が引き継ぐこととなった。
それから逸見は闘病生活に入るも、その年のクリスマスに48歳という若さでこの世を去り、自身も周囲も望んでいた生還と復帰は叶えられなかった。
古巣のフジテレビのニュース番組「スーパータイム」で訃報が報道された際、スーパータイムで逸見とキャスターを務めた安藤優子は本番中に思わず泣き崩れてしまった。
『クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!』で共演した渡辺正行も電話口のインタビューで号泣してしまった。
『平成教育委員会』で同じく司会者として出演していたビートたけしは葬儀の際に本来は弔辞を読むはずだったのだが、弔辞も読めないくらい葬儀中はずっと号泣してしまうほど信頼関係は厚かった(『クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!』で共演した山城新伍が代わりに弔辞を読み上げている)。
明石家さんまは癌告白の記者会見を見て「この人はもしかしたら帰ってこないかもしれない」と不穏な予感がしたという。
まだ逸見が告白前に島田紳助はある番組で冗談で癌のネタを逸見に振ったのだが後にそれが事実だった事を知り、知らなかった事とはいえ凄く後悔したという。
※スキルス癌は進行が早く、早期発見をしないと治療が難しいとされている。