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P-39の編集履歴2021/06/20 00:04:02 版
編集者:miyomin
編集内容:Fw190について

P-39

ぴーさんきゅう

制式名称は『エアラコブラ』。ヘリコプターで有名なベル社の記念すべき第1作である。特徴的なのはエンジンをコクピット後方に設けている事で、これにより機首に強力な機銃を搭載できる。アメリカでは不評な戦闘機だったが、レンドリースされたソビエトでは絶大な支持を得た。改良型のP-63も供与されている。

苦肉の機首武装

戦闘機の武装は出来るだけ機首に集中させたほうが効率がいい。

そうすれば距離によって弾道が集中・拡散する事もなく、どんな距離でも一直線上で狙えるからである。

当時の戦闘機の武装と言えば、機首に積めないとなると、主翼にも機銃を搭載するのが一般的でだった。これは少しだけ内側に向けて配置されており、照準機で狙った場所には一定の距離で集中するようになっている。

(逆に言えば他の距離では弾道が拡散してしまい、命中しない)

また、主翼を重くする事には欠点もあり、重くすると頑丈に作らなければならなくなる事も忘れてはいけない。旋回では加速度(G)がかかり、かかる重量は実際の3倍・4倍にもなる。そして重量増加は加速や上昇力、最高速度の低下を招く。「重い」は致命的な弱点にも繋がるのだ。

革新の新発想

当時、アメリカでは新型の武装に37㎜機関砲が加えられた。もちろん強力な弾薬を発射でき、1発の命中でも敵を葬り去る事が可能である。ただ問題としては機銃が大型で、機首に搭載するとエンジンが収まらない事情があった。

これを解決するためP-39は機首に強力な37㎜機関砲を搭載し、エンジンは延長軸(プロペラシャフト)で動力を伝えるようにして、コクピット後方に配置した。他にも12.7mm機も主翼に収め、濃密な火線が敵を圧倒するという算段である。

エンジンもアリソンV-1710で、P-40等と同じエンジンとなった。液冷の特色を生かし、ラジエータやオイルクーラーは機首以外に配置して省スペースを実現している。他にも重量物は機体の重心近くに配置し、これにより優秀な運動性が得られるはずであった。

前途は洋々。実際は・・・?

1935年に設立されたベル・エアクラフト社では上記のような工夫を凝らし、P-39を設計した。

実際に製作されたXP-39-BEは

・高度6096mへの上昇に5分

・最高速度は628km/h

と高い性能を示し、陸軍は採用を決定。

だが、実際に戦闘用の装備(機銃など)を搭載すると増加した重量で性能は低下。さらにトラブル続きだった排気タービンも取り外しが指示され、性能低下に拍車をかけた。そうしてようやく完成したP-39だったが、完成した戦闘機に優秀さは残っていなかった

最高速度は低下しており、(P-39Cで609km/h。以降低下を続ける)

排気タービンも外したせいで、高度3000m以上でのエンジン性能が大幅に落ちていた。

一説には競合試作されていたP-38ライトニングも排気タービンを導入しており、アメリカ陸軍は保険の意味でP-39から排気タービンを外すとこにしたと言われている。

そして苦悩はまだまだ続く。

VS日本軍

設計時から大幅に性能の低下したP-39ではあったが、以外にも訓練機に登場したパイロットの評価は良好であった。低空での操縦性が良く、横開きの搭乗ドアは地上滑走時に故郷でのドライブを思い起こさせた。

後にエースパイロットとなるチャック・イエーガーは訓練時代のP-39を思い起こし、自分の操縦した戦闘機の中では最高と評している。しかし実際にP-39で戦闘を経験した多くのパイロットはこの戦闘機に苦い失望を味わう事となった。

最初の実戦は太平洋戦線のガダルカナル島である。

戦ったのはイギリスにも供与された「カリブーⅠ」だった。一番の特徴は火力であり、日本の零戦一式戦闘機にも対抗できる、と思われた。

しかし結果は無残なまでの惨敗。

胴体が短いおかげで安定性が悪くスピンにも入りやすい上、37mm機関砲はデリケートで激しい空戦に入るとすぐに故障してしまった。また機首に集中した武装は発射と同時に硝煙がコクピットに充満し戦闘どころではなかった。(これはのちに改善される)

地上掃射や爆撃には威力を発揮したものの空戦では格闘戦を最重視した日本機に歯が立たず、またヘンダーソン基地攻撃に伴う砲爆撃により多くが破壊されてしまう。

(37mm機関砲だけはPTボートへ再利用)

同様の問題はイギリスも直面しており、ちょっと使っただけでアメリカに返却される機体が続出した。(アメリカでは返却された機体を「P-400」と命名し、区別した)

結局のところ、高空で鈍重なP-39は旋回性能を重視して設計された零戦の絶好のカモにされ、独特の恰好から「かつおぶし」などと呼ばれるだけの有様になってしまった。

飛んだところでカモ同然の運動性では撃墜されるだけなのは間違いなく、このところ負け続きのアメリカは、景気の悪いP-39を早くに前線から引き揚げざるを得ないのだった。

しかし『捨てる神あれば拾う神あり』、意外なユーザーが現れたのだった。

空飛ぶカツオブシと赤旗の軍勢

こうしてP-39は不評を買ってしまい、余りモノとして返品在庫が積み上がってしまった。

だが、時代はP-39を見捨ててはいなかった。

1941年3月11日、アメリカ議会において『レンドリース法』が成立。

これによりイギリスソビエトを始めとする連合国に対し、アメリカが兵器などの軍需物資を供給(貸与)することになった。

もちろんP-39も供給される事になった。アメリカからは他にも、P-40M3中戦車など、『生産中で今すぐ用意出来る兵器』が選ばれた。P-39はロシアに戦いの場を移していくのである。

ソビエトに供与されたP-39は、アメリカも予想外の大活躍を果たした。

高度3000m以上では性能が低下するエンジンだったが、対地支援任務を主とするソ連空軍では低空での作戦が多く、問題にはならなかった。

(赤軍を代表するIl-2も高度1000~2000mが性能の最高であり、襲撃の殆どは1000m以下の超低空、その護衛任務もIl-2を狙う敵機迎撃任務も当然低空任務となる)

低空飛行が多いなら高度性能の悪さは問題にはならず、むしろ攻撃機としても高い能力を誇った。機首の37mm機関砲の榴弾は強烈な破壊力があり、機銃掃射では凄まじい威力を発揮、あるエースパイロットの編隊は、ドイツ軍のタンカーを炎上させたことさえあった。下向きにまがった機首も下方視界がよく、対地攻撃には都合が良かった・・・。

と、このように他国では空戦ではなく攻撃機運用で活躍したのだろう、と想像されていたが、ソ連崩壊によりソ連資料が公開され戦闘機としても有用であった事が判明した。

まず東部戦線でのアリソンエンジンは何故か寿命が短く、特に初期には規定耐久時間が120時間のはずが、50時間しか保たないという信頼性の低さで、頻繁に交換しながらの運用となったが、後にある程度改善された。また足が丈夫で尚且前輪式であり不整地着陸が楽と好評を博した。

またドア式扉は脱出時に一旦主翼の上に降り立つ必要があり、後方から飛んでくる水平尾翼で両脚や背骨を粉砕される者が続出した。このため機体からの脱出は殺人的だと評された。

本機は輸送時に胴体が分割できるようになっており、分割面には12.7mm機銃に耐えうる装甲が施されていた。しかしドイツ戦闘機の主武装である20mm機関砲には通用せず、日本のゼロ戦、フィンランドに支給されたBf-109のパイロットも「後方から射撃するとすぐにエンジンが火を噴く」と証言している。しかしコクピットの後ろにエンジンがあることはパイロットの生存性に寄与したものと思われ、ソ連の戦闘機に比べれば頑丈であった。

当時のソ連では戦略資源の節約のため木材を多用しており、重く脆弱な自国の木製戦闘機はパイロットに不評であった(特に前期型LaGG-3などはその形式名を皮肉って(La)塗装された(G)保証済(G)棺桶 などと酷評された)。また大戦初期は風防ガラスが劣悪で気泡や黄ばみが酷く、前方視認に難のあったパイロット達は飛行中も風防を全開にして飛んでいたのである。(このためLagg-3は15kmほど速度が低下したという。また風防が開かない事故が多発したという事情もあった。)ソ連の国産機には戦闘機という以前に航空機として多くの問題があったのだ。

そんな国に現れた透明な風防とジェラルミン製の頑丈な(つまり他国では当たり前の)機体にソ連パイロットは喜んだ。彼らはまず、「敵の翼に雨音を鳴らすだけ」の7.62mm機銃をすべて取り外してしまった。そして37mm機関砲1門と12.7mm機銃2丁の武装に満足し(その結果運動性が向上した)、弾薬が尽きればタラーンと呼ばれる体当たり攻撃を敢行した。

艦船への自爆攻撃である日本の特攻とは異なり、自国内の戦場しかもプロペラや主翼による敵機の切り裂きを意図したタラーンは狂気の戦術というわけではない。これは他の国でも見られたケースである。(日本も震天飛行隊などB-29に体当たりを行い生還したパイロットがいる。)

後日禁止令が出された後もタラーンを行うパイロットおり、特にP-39は機体の強度から不時着も容易であったことと相まって、4回実行し生還したコブザンなど体当たりを繰り返しては帰還する者もいた。

一方でエース級パイロットでも体当たり命を落としている者もおり、全体としてはソ連パイロットの生還率を下げる要因となった。

独ソ戦における500件を超えるタラーンの内、無事基地へ帰還・不時着したものは233機で、パラシュートによる脱出は176機、死亡が216機、行方不明が11機となっている。

公式最後のタラーンはコレスニコフ機が45年4月に行ったもので、この時のタラーンで彼は死亡している。

クバンの空戦では大いに活躍し、この時P-39エースが何人も誕生した。

空戦の殆どが高度2000以下で発生する東部戦線では低空仕様のP-39は全力性能を発揮できた、またソ連パイロットは翼内機銃を嫌って撤去する者が殆どであり更に機動性が向上した(勿論機銃を減らした分火力は低下する)

第16戦闘機連隊などに代表されるP-39運用部隊からは高高度で無い限り独戦闘機とは互角以上であり、メッセル(Me109の赤軍愛称)は敵だがフォッセル(Fw190)はカモでしか無いとまで評価された。

もっともドイツ側パイロットの手記によれば多数のP-39に旋回戦を挑まれ苦戦したものの、Fw190の急速なロールにP-39はついてこれなかったと証言している。これはF-4Uコルセアに日本軍パイロットが抱いた印象と同じで、急速横転で降下しながら高速離脱するFw190を見て撃墜と勘違いしたケースが多々あったためと思われる。

大戦後半のソ連はP-39の性能を超える優秀な戦闘機を多数投入する。しかし相変わらず品質のばらつきは大きく、対戦後期のソ連兵器を分析したアメリカの報告書は「設計は優秀だが工員の意識の低さがすべてを台無しにしている」と評している。

(その一方でスミソニアン・インスティテューション=米国立研究機関の発行著書であるRed Phoenix等では後期ソ連における兵器の品質は電子機器を除き米国と同等であり装甲等の一部では米国より優秀である、と書かれている)

La-5の実戦テストでは主翼破壊による墜落事故が発生したが、その原因はサイズの違うボルトを無理やり押し込んだためという単純なミスによるものだった。

(一方、上記の書において基地における整備設備が米国より劣る戦中ソ連においては工員の努力により高稼働率が達成されていた、とも書かれている。)

また急速な航空戦力の拡充にパイロットの育成が追いつかず、新鋭機が思ったほど活躍できない状況もあった。

(数においては戦中のソ連のパイロット養成者数は米国よりも多い世界1位である。ソ連では戦前から陸路の凍結に対する航空運輸への期待が大きく、全国の飛行学校で多くの老若男女が飛行免許を取得した。しかしスターリンの粛清が軍、民の双方に破滅的な状況をもたらし、独ソ戦の開始時に空軍は壊滅的な損害を被った。その後も初期の劣悪な戦闘機による防衛戦で多くのパイロットが失われ、大戦後期もその損失は埋めようがなかったのである。また兵站への負荷をなるべく避けるため、前線部隊が継戦不可能な状態まで消耗してから後方部隊と入れ替える方式にしていたこともパイロットの損耗に拍車をかけた。)

そんな中、多少旧式でも信頼性が高く乗り馴れたP-39とベテランのコンビは頼りになる存在であった。かれらは決して相棒を手放さず「俺はこれに乗ってベルリンへ行く」と言い放つ者も多かったという。

ソ連の満州侵攻においても活躍してあり、更に1948年まで部隊運用される等ソ連には多いに気に入られた「赤蛇」であった。

少し話は脱線するけど・・・

一応公式には大戦中の1機種として、枢軸国航空機撃墜数1位に輝いている戦闘機であるのだが・・

これについては一人一人が考えてほしい

何故かと言うと、例えば日米の撃墜数は互いの記録を突き合わせると実際の3~5倍の空戦戦果が常であり、正確な空戦スコアというものはどの国においても証明しにくい。

米英は早くからガンカメラを導入し、ドイツはガンカメラ及び僚機、地上からの証言など非常に厳しい基準があった。

(その為ドイツの撃墜スコアは正しいとする風潮があったが、コールドウェル&ミュラーの研究両者により部隊毎に30%から750%までの幅広い誇張があり、その内の部隊10%程度は軍が意図的に戦果を上方修正していると述べ、それらは大戦後期になるほど顕著である、とされた。もっとも何度も述べているように過大戦果は何処の国でも起きている)

またフィンランドでは撃墜申告された機体を味方地上部隊が確認してようやく戦果認定されるため、パイロットの申告が取り下げとなるケースが多かったという。

(ソ連も同じであり、地上班が観測できない場所=敵地上空等においては撃墜したと唱えても戦果が認められずパイロットの不満が出ている。このような戦果確定の為に同方法のフィンランドではソ連崩壊後に資料紹介をしてみると自らの公式な撃墜数よりも多くの敵機を撃墜していたことが判明したりした)

(なおソ連はスペイン内戦までは自己申告+僚機証言式だったが過大戦果が問題視され独ソ戦までに地上観測式へと変更されてはいる。)

ソ連軍には公式にスコアを管理する機関は無いと言う者が居るがVNOS(航空監視、警告、通信部隊)が中心として活動し、認定には各指揮所の確認も必要とされかなり厳重である、しかしそれでも過大戦果は起きるのだ。

よって何が正しいかは一人一人がよく考えて欲しい所である。

エアラコブラ⇒キングコブラ

こうしてP-39は殆どがソビエトで活躍する事になった。

P-39の出品後、ベル社はエンジンを換装して再設計した『P-63 キングコブラ』を開発しており、こちらも続いてソビエトに供与される事になった。エンジンが改良型の出力向上型になり、空戦性能などは『P-51P-47にも比肩する』と評価された。

戦時生産の半数以上がソ連へと主にALSIBルート(アラスカからシベリアに抜ける)を自力航行にてレンドリースが計画され実行された、しかし実行につきオイルクーラー、燃料ポンプ、燃料供給スイッチの欠陥が発覚しソ連米国両方の技術者(及びフェリーマン)が数百人前後で行ったり来たりする事に。

初期便はともかく(第一便68機中21機がソ連に入る前に墜落という惨事、フェリーマンはこの事柄からP-63をベルブービートラップと呼んだ)概ね順調に輸送が進むも、ソ連の風土に(主に気温が)P-63は合っておらずTsAGIによる細かい再改造(A-10酸素マスクをソ連製KM-10に変える等)を必要とされた。

初部隊はモスクワにて防空隊として発足するも既にソ連軍はベルリンを攻めており、訓練(P-63の訓練班はウラルとレニングラードに置かれた)後は殆どが極東戦線に移動される

満州侵攻戦ではザバイカル戦線の2部隊にて運用がされる、極初期はIl-4(爆撃機)の護衛として運用されるも日本軍機との遭遇が極めて稀と判断され、殆ど爆装での地上支援運用となった

最低でも68機のP-63が満州侵攻に参加するも、空戦撃墜としての公式戦果は8月15日に記録されている2機の九七式戦闘機と1機の一式戦闘機(隼)のみである。

戦後も含め最終的に2400機が米国からソ連へと引き渡されて部隊配置される

大戦は終了していたので複座に改造したP-63(とP-39)が使用される、前輪式の両機は前輪式の次世代飛行機・・・つまりジェット機の離着陸訓練に良いとされ多数(数字記録なし)が訓練機へと改造と運用され、のちに訓練用の複座型Mig-15が出現すると少しづつ消えていった。

フランスにも300機が引き渡されソ連と同じように戦闘機としても訓練機としても運用された。

大きく違う部分としては極東へと配置されたヴァンデ、イル・ド・フランス、ノルマンディー・ニーメン、リムーザン等の部隊で、各部隊は独立戦争中のベトミン軍への空爆に参加した

少数はアメリカでも爆撃機からの射撃練習用(RP-63「ピンボール」)として使われており、防御機銃手の技量向上に一役かっていたという。

運用した3国に一致する文として整備性に難、オイルクーラーに難、弾切れ時のフラットスピン癖が指摘されている。

(機種の弾薬だけで結構な重量であり、それを打ち切るとテールヘビーになる設計的欠陥があった)

派生型

XP-39-BE

アリソンV-1710-17(E2)エンジンを搭載しており、これはGE製B-5スーパーチャージャーに対応したもの。2挺の12.7㎜機銃、1挺の25㎜機銃を搭載する予定だったが、実際には武装されず、のちにXP-39Bへ改造された。

XP-39B

先の機が改造されたもの。NACA風洞実験で得られたデータを取り入れて、若干の設計変更が入った。

胴体延長・翼幅短縮され、エンジンからはスーパーチャージャーが取り外される。

YP-39

12機が製作されたテスト型。XP-39Bからは尾翼が拡大される。

エンジンはV-1710-37(E5)で、最初の2機は37mmモーターカノン・12.7mm機銃・7.62mm機銃で武装したうえ引き渡された。

YP-39A

高高度用のV-1710-31を搭載する予定だったが、結局はYP-39として完成する。

P-39C

YP-39のエンジンをV-1710-35に換装したもの。

防弾装甲や自己防漏燃料タンクを備える。

20機が完成したものの、残り80機の生産はまもなくP-39Dに切り替わった。

P-39D-BE

P-39Cから攻撃力・防御力が強化され、約110kgもの装甲が追加された。

武装も37㎜機銃・12.7mm機銃(2挺)にくわえ、主翼の7.62mm機銃が4挺に増えた。60機生産。

P-39D-1

ソ連へのレンドリース用に、37㎜モーターカノンをイスパノ20mm機銃に換装したもの。

実際には1機がソ連へ送られたのみ。336機生産、のちに26機が偵察仕様(P-39D-3)へ改造。

P-39D-2

エンジンをV-1710-63とし、再び37㎜モーターカノンに対応した型。

胴体下には増槽や爆弾も搭載できる。

158機が生産され、少なくとも50機程度はソ連に送られた。11機は偵察仕様(P-39D-4)へ改造。

XP-39E

3機がP-39Dより改造された試験機。

コンチネンタルⅠ-1430-1エンジンを予定していたが、実際にはV-1710-47に落ち着いた。

地上・空中で様々な改設計を試される一方、P-63用に胴体を延長したものもある。

P-39F-1

定速3̪肢プロペラを装備するもので、排気管が12に増えた。229機生産。

P-39F-2

後部胴体にカメラを装備する偵察機。27機改造。

P-39G

P-39D-2に、V-1710-63(E6)とエアロプロダクト製プロペラを適用したもの。

実際には生産されず、設計はP-39K~Nに生かされた。

P-39J

P-39FにV-1710-59(自動ブーストコントロール付き)を搭載したもの。25機生産。

P-39K-1

P-39D-2にV-1710-63(E6)とエアロプロダクト製プロペラを装備したもので、210機生産。

うち50機がソ連に送られた。

P-39K-2

後部胴体にカメラを装備し、下部に装甲を追加したもの。6機改造。

P-39K-5

P-39Nのための試作機で1機改造。

P-39L-1

カーチス製プロペラを装備し、主翼下にロケット弾を装備できる。250機生産。

P-39L-2

P-39L-1に後部胴体カメラ、装甲を追加。11機生産。

P-39M-1

V-1710-67(E8)とエアロプロダクト製プロペラを装備し、高高度性能は再び良くなった。

一部はV-1710-81(E18)を装備する。240機生産。

P-39の編集履歴2021/06/20 00:04:02 版
編集者:miyomin
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P-39の編集履歴2021/06/20 00:04:02 版