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P-39

ぴーさんきゅう

制式名称は『エアラコブラ』。ヘリコプターで有名なベル・エアクラフト社の記念すべき第1作である。特徴的なのはエンジンをコクピット後方に設けている事で、これにより機首に強力な機銃を搭載できる。アメリカでは不評だったが、レンドリースされたソビエトでは絶大な支持を得た。改良型のP-63も供与されている。
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苦肉の機首武装編集

戦闘機の武装は出来るだけ機首に集中させた方が効率が良い。そうすれば距離によって弾道が集中・拡散する事もなく、どんな距離でも一直線上で狙えるからである。

もし主翼に武装を搭載するならば、少しだけ内側に向け、一定の距離で弾道が交差する様に調整する必要がある。それゆえ逆に言えば他の距離では弾道が拡散して命中しない。


また旋回時には翼の重量の3~4倍の加速度(G)がかかるため、武装を搭載して重くなった翼を強化するとさらに重量が増える。これが悪循環となり加速、上昇や最高速度の低下を招くこととなる。重量増加は戦闘機にとって致命的な性能低下をもたらすのである。


革新の新発想編集

当時のアメリカには航空機用の37㎜機関砲があり、1発で敵機を撃墜する強力な威力があった。しかし戦闘機の機首に収まるようなサイズではなかった。


これを解決するためP-39は機首に37㎜機関砲を搭載する代わりに、エンジンをコクピット後方に配置し、延長軸(プロペラシャフト)で動力を伝えるようにした。同時に12.7mm機銃も主翼に収め、濃密な火線で敵を圧倒するという算段である。


エンジンはP-40等と同じアリソンV-1710を採用。液冷式の特色を生かし、ラジエータやオイルクーラーは機首以外に配置して省スペースを実現している。他にも重量物は機体の重心近くに配置し、これにより優秀な運動性が得られるはずであった。


前途は洋々。実際は‥‥?編集

1935年に設立されたベル・エアクラフト社では上記のような工夫を凝らしP-39を設計した。

実際に製作されたXP-39-BEは

  • 高度6096mへの到達に要する時間は5分
  • 最高速度は628km/h

と高い性能を示し、陸軍は採用を決定。


だが、トラブル続きだった排気タービンが取り外されるや性能は大幅に低下、それを補うためのセールスポイントとして余剰のある機首に武装を追加すると、重量増により性能はさらに悪化した。排気タービンを外したせいで高度3000m以上でのエンジン性能も大幅に落ちていた。

(最高速度はP-39Cで609km/h。以降のバリエーションでも低下を続ける)


一説には競合試作されていたP-38ライトニングも排気タービンを導入しており、アメリカ陸軍は保険の意味でP-39から排気タービンを外すことにしたとも言われている。


そして苦難の末にこれらの問題を解決した時、完成した機体にもはや当初の優秀さは残されていなかった。


かくして波乱含みの実戦配備となった本機の苦難はまだまだ続く。


vs日本軍編集

設計時に大幅に性能の低下したP-39ではあったが、意外にも訓練機に搭乗したパイロットの評判は良好であった。低空での操縦性が良く、横開きの搭乗ドアは地上滑走時に故郷でのドライブを思い起こさせたと言われる。


後にエースパイロットとなるチャック・イェーガーは訓練時代を懐かしみ、P-39を「自ら操縦した戦闘機の中では最高」とまで評している。しかしP-39で実戦に参加したパイロットの多くはこの戦闘機に苦い失望を味わう事となった。


本機の初の実戦となったのは太平洋戦線のガダルカナル島である。戦ったのはイギリスにも供与された「カリブーⅠ」だった。大火力により日本の零戦一式戦闘機にも対抗できる、と目されていたのだが…


結果は無残なまでの惨敗。

胴体が短いのが災いし安定性が悪くスピンに入りやすい上、37mm機関砲はデリケートで激しい空戦に入るとすぐに故障してしまった。また、機首に集中した武装は発射と同時に硝煙がコクピットに充満し、戦闘どころではなかった(これは後に改善される)。地上掃射や爆撃には威力を発揮したものの、空戦では格闘戦を最重視した日本機に歯が立たず、ヘンダーソン基地攻撃に伴う砲爆撃でも多くの機体が破壊されてしまった(破損を免れた37mm機関砲はPTボートの搭載火器として転用された)。


同様の問題によりイギリスからも返却される機体が続出(アメリカでは返却された機体を「P-400」と命名し、区別した)。結局のところ、高空で鈍重なP-39は旋回性能を重視して設計された零戦や隼の絶好のカモにされ、独特の恰好から「かつおぶし」などと呼ばれる有様になってしまった。


飛んだところでカモ同然の運動性では一方的に撃墜されるだけなのは間違いなく、このところ負け続きだったアメリカは、景気の悪いP-39を早々に前線から引き揚げざるを得なかった。


しかし『捨てる神あれば拾う神あり』、意外なユーザーが現れたのだった。


空飛ぶカツオブシと赤旗の軍勢編集

こうしてP-39は不評を買ってしまい、余りモノとして返品在庫が積み上がってしまった。だが、時代はP-39を見捨ててはいなかった…


1941年3月11日、アメリカ議会において『レンドリース法』が成立。これによりイギリスやソビエトを始めとする連合国に対し、アメリカが兵器などの軍需物資を供給(貸与)することになった。


その対象にはP-40M3中戦車など、『現在生産中で今すぐ用意出来る兵器』が選ばれた。一方でアメリカ自身も参戦に備え軍備拡張中であり、他国に行き渡るだけの兵器を生産する余裕などなかった。

そこでまずは余り物のポンコツ兵器から輸出する事となり、前線で酷評を浴びたP-39も当然その中に含まれていた。こうして本機は戦場をロシアに移していくのである。

(それでも複葉機を他国に支給していたイギリスよりはましである。)


しかしソ連においてP-39は予想外の活躍を果たした。高度3000m以上では性能が低下するエンジンも、低空での対地支援任務を主とするソ連空軍の作戦では問題とはならなかった(赤軍を代表するIl-2も高度1000~2000mが最高性能であり、襲撃の殆どは1000m以下の超低空、当然護衛機も低空での任務となる)。

また交戦国であるドイツ、ソ連双方とも超高空を飛行する戦略爆撃機の開発に失敗したことも一因である。(逆に高高度迎撃機として開発されたMig-3は活躍の場がなく早々に退役した。)


低空を主任務とする攻撃機としての運用では、機首の37mm機関砲の榴弾は凄まじい威力を発揮した。あるエースパイロットの編隊は、ドイツ軍のタンカーを炎上させたことさえあった。下向きに曲がった機首も下方視界がよく、対地攻撃には都合が良かった。


‥‥と、このようにかっての西側諸国では対地攻撃機として活躍が想像されていた。ところが1991年のソ連崩壊により公開された資料により戦闘機としても有用であった事が判明した。


当時のソ連は戦略物資であるジェラルミンの入手難から、戦闘機の構造材には重く脆弱な木材を多用したため、急激な機動には危険が伴った。

(ソ連の戦闘機は全般的に主翼がやや後退翼気味となっているが、これは旋回時に木製の主翼の破断を防ぐためである。しかし後退翼は旋回時には翼端失速が起こりやすく、どちらにせよ急速旋回は危険な行為であった。)

また、大戦初期は風防ガラスの品質が劣悪で気泡や黄ばみが酷く、パイロット達は飛行中も風防を全開にして飛んでいた。このため当時の主力戦闘機の一つであるLaGG-3は15km/hほど速度が低下したと言われる。また風防が開かず、脱出不能となるトラブルが続発したことから、機種名を皮肉って「(La)塗装された(G)保証済(G)棺桶」 などと酷評された。

つまりソ連の国産機には戦闘機という以前にまず航空機として多くの欠陥があったのだ。


そんな国に現れた良質で透明な風防とジェラルミン製の頑丈な(つまり他国では当たり前の)機体をソ連のパイロット達は歓迎した。また着陸脚が頑丈でなおかつ前輪式であり、不整地着陸が容易であることも好評を得た。

要するにP-39がとりわけ優れていたというより、まともな戦闘機がこれしかなかったというのがソ連空軍の実情であった。


彼らはまず、「敵の翼に雨音を鳴らすだけ」の7.62mm機銃をすべて取り外してしまった。そして37mm機関砲1門と12.7mm機銃2丁の武装に満足し、弾薬が尽きればタラーンと呼ばれる体当たり攻撃を敢行した。


洋上艦船への自爆攻撃である日本の特攻とは異なり、自国内の戦場しかもプロペラや主翼による敵機の切り裂きを意図したタラーンは狂気の戦術というわけではなく、これは他の国でも見られたケースである(日本も震天飛行隊などB-29に体当たりを行い生還したパイロットがいる)。


禁止令が出た後もタラーンを行うパイロットは後を絶たず、特にP-39は不時着に耐えうる十分な機体強度を有していたこともあって、タラーンを4回実行したボリス・コブザンなど体当たりを繰り返しては帰還する者もいた。


一方でエース級パイロットでもタラーンで命を落とす者もおり、全体としてはソ連パイロットの生還率を下げる要因となった。独ソ戦における500件を超えるタラーンの内、無事基地に帰還・不時着した機体は233機で、パラシュートによる脱出は176機、死亡が216機、行方不明が11機となっている。公式最後のタラーンはアレクサンドル・L・コレスニコフ機が1945年4月に行ったもので、この時のタラーンにより彼は死亡している。


そんな中でクバンの空戦ではP-39は大いに活躍し、この時エースパイロットが何人も誕生した。空戦の殆どが高度2000以下で発生する東部戦線では、P-39は全力性能を発揮でき、ソ連側のパイロットらが翼内機銃を嫌って撤去し、結果的に機動性が向上したのもプラスに働いた(勿論機銃を減らした分火力は低下する)。


第16戦闘機連隊などに代表されるP-39運用部隊からは、「高高度で無い限り独戦闘機とは互角以上であり、メッセル(Me109)は敵だがフォッセル(Fw190)はカモでしか無い」とまで評価された。


‥‥と、ここまではソ連側で伝えられている記録だが、ドイツ側パイロットの手記によれば、多数のP-39に旋回戦を挑まれ苦戦したものの、Fw190の急速なロールにP-39は付いてこられなかったと証言している。これはF4Uに日本軍パイロットが抱いた印象と同じで、高速横転からの急降下でソ連機を引き離していくFw190を見て撃墜と勘違いしたケースが多々あったためと思われる。


また、東部戦線のFw190の多くが戦闘爆撃機型であるF型ないしG型であったことも忘れてはならない。ソ連戦闘機がFw190を「食える」のは爆撃のために緩降下に移った時であり、爆撃後のFw190は戦闘機タイプと同じ機動性を発揮した。

Fw190による爆撃隊を護衛したBf109(Me109)のパイロットは、本来護衛すべき対象のFw190が敵機を撃墜してしまうので、部隊の士気に芳しくない影響を受けたと述べている。


大戦後半のソ連はP-39の性能を超える戦闘機を多数投入する。しかし品質のばらつきは相変わらずであり、大戦後期のソ連兵器を分析したアメリカの報告書は「設計は優秀だが、工員の意識の低さがすべてを台無しにしている」と評している。La-5の実戦テストでは主翼破壊による墜落事故が発生したが、その原因はサイズの違うボルトを無理やり押し込んだためという他国ではありえないようなミスによるものだった。


その一方でスミソニアン・インスティテューション=米国立研究機関の発行著書であるRed Phoenix等では「後期ソ連における兵器の品質は電子機器を除き米国と同等であり、装甲等の一部では米国より優秀である、また基地における整備設備が米国より劣る戦中ソ連においては工員の努力により高稼働率が達成されていた」と記されている。


また急速な航空戦力の拡充にパイロットの育成が追いつかず、新鋭機が思ったほど活躍できないという事情もあった。数のみにおいては戦中のソ連のパイロット養成者数は米国を越える世界1位であり、戦前から陸路の凍結に対する航空運輸への期待から、多くの老若男女が飛行学校で免許を取得していた。


だがスターリンによる粛清は軍、民の双方に破滅をもたらし、空軍は独ソ戦の劈頭に壊滅的打撃を被った。その後も初期の劣悪な戦闘機による防衛戦で多くのパイロットが失われ、大戦後期もその損失は埋めようがなかったのである。更に兵站への負荷を抑えるため、前線部隊が継戦不能となってから後方部隊と入れ替える方式にしていたこともパイロットの損耗に拍車をかけた。


そんな中、多少旧式でも信頼性が高く乗り馴れたP-39とベテランのコンビは頼りになる存在であった。彼らは決して相棒を手放さず「俺はこれに乗ってベルリンへ行く」と言い放つ者も多かったという。ソ連の満州侵攻においても猛威を振るい、戦後も1948年まで部隊運用されるなど、ソ連には大いに気に入られた「赤蛇」であった。



ソ連における栄光、しかし‥‥編集

しかし、ソ連においてもP-39に問題が無かったわけではない。


まず東部戦線でのアリソンエンジンは何故か寿命が短く、120時間の規定に対し50時間しか保たなかった。そのため初期には頻繁に交換を必要とした。しかしこれは後にエンジンメーカーとベル社の努力により徐々に改善された。


一方でドア式扉は脱出時に一旦主翼の上に降り立つ必要があり、後方から飛んでくる水平尾翼で両脚や背骨を粉砕される者が続出。このため機体からの脱出は殺人的だと評された。


本機は輸送のために胴体が分割可能で、分割面には12.7mm機銃に耐えうる装甲が施されていた。しかしドイツ戦闘機の主武装である20mm機関砲に対しては通用せず、日本の零戦フィンランドに支給されたBf109のパイロットも「後方から射撃するとすぐにエンジンが火を噴く」と証言している。それでもコックピットの後ろにエンジンがあることはパイロットの生存性に寄与したものと思われ、ソ連の戦闘機に比べれば頑丈であった。


なおソ連では先に7.62mm機銃を全廃したのに加え、さらなる運動性の向上を目指して機首の37mm機関砲を軽量で発射速度に優れた20mm機関砲に交換するケースも見られた。機首に20mm機関砲+機銃2門という配置はエンジン位置を移動せずともソ連やドイツで実現済みであり、そうなるとベル社が当初企図した、「エンジンを中央に移し機首に武装を集中する」というアイデアはもはやほとんど意味をなさなくなっていた‥‥



公式な戦果は‥‥編集

公式には大戦中の1機種として、枢軸国航空機撃墜数1位の座に輝いている戦闘機であるのだが…しかしこれには疑義がある。


一般的にどの国においても撃墜戦果は過大となる傾向があり、正確な空戦スコアというものは証明しにくい。例えば日米の撃墜数は互いの記録を突き合わせた結果、実際戦果と3~5倍程度の開きがあった。

米英は早期にガンカメラを導入し、ドイツはガンカメラ及び僚機、地上からの証言などに非常に厳しい基準を設けていた。その為ドイツの撃墜スコアは正しいとする風潮があったが、コールドウェル&ミュラーの研究両者により部隊毎に30%から750%までの幅広い誇張があり、その内の部隊10%程度は軍が意図的に戦果を上方修正していると述べ、それらは大戦後期になるほど顕著である、とされた。このように過大戦果は何処の国でも起きている。


フィンランドでは撃墜申告した機体を地上部隊が確認してようやく戦果認定されるため、パイロットの申告が取り下げとなるケースが多かったという。このため戦後、ソ連崩壊後の資料照会によって自らの公式な撃墜数よりも多くの敵機を撃墜していたことが判明した。


しかしこれは極めて例外的なケースで、ソ連でも地上班が観測できない場所=敵地上空等においての撃墜は認めず、パイロット達の不満が噴出したと言われているにもかかわらず、フィンランドとの冬戦争、継続戦争における戦果照合において過大な撃墜記録がなされたことが判明している。

ソ連と他の交戦国との戦果照合はソ連崩壊後に公開されたデータにより進行中であり、今後の研究報告が待たれるところである。


エアラコブラ⇒キングコブラ編集

製造国で戦力外通告を受けたP-39はその殆どがソビエトで活躍する事になり、その後ベル社はエンジンを換装して再設計したP-63 キングコブラを開発した。エンジンが出力向上型になったことにより空戦性能などは「P-51P-47にも比肩する」と評価された。しかし航続距離が大幅に減少しており、攻勢に転じた連合軍ではもはや使いどころがなかった。


そのため戦時生産の半数以上がソ連へ送られることとなり、主にALSIBルート(アラスカからシベリアに抜ける)を自力航行にて譲渡するレンドリースが実行されたが、その過程でオイルクーラー、燃料ポンプ、燃料供給スイッチの欠陥が発覚し、ソ連米国両方の技術者(及びフェリーマン)が数百人前後で行ったり来たりする羽目となった。


第一便68機中21機がソ連に入る前に墜落という惨事(フェリーマンはこの事柄からP-63を「ベルブービートラップ」と呼んだ)を除いて概ね順調に輸送が進むも、P-63はソ連の風土に耐えられるよう設計されておらず、TsAGIによる細かい再改造(A-10酸素マスクをソ連製KM-10に変える等)を必要とされた。


一方でP-63を支給されたソ連もベルリン攻略の戦況では持て余し気味で、訓練(P-63の訓練班はウラルとレニングラードに置かれた)後は殆どが極東戦線に移動された。満州侵攻戦ではザバイカル戦線の2部隊にて運用がされ、極初期はIl-4(爆撃機)の護衛として運用されるも日本軍機との遭遇が極めて稀と判断され、殆ど爆装での地上支援運に回された。最低でも68機のP-63が満州侵攻に参加するも、空戦撃墜としての公式戦果は8月15日に記録されている2機の九七式戦闘機と1機の一式戦闘機(隼)のみである。


戦後も含め最終的に2400機もの機体が米国からソ連へと引き渡されて部隊配置され、戦争終結後は複座に改造されたP-63(とP-39)が引き続き使用された。前輪式の主脚を採用していた本機は同じく前輪式のジェット機の離着陸訓練に適しているとされ、多数(数字記録なし)が訓練機へと改造。訓練用の複座型Mig-15の配備に伴い少しずつ退役していった。


フランスにも300機が引き渡され、ソ連と同じように戦闘機としても訓練機としても運用された。大きく違う部分としては極東へと配置されたヴァンデ、イル・ド・フランス、ノルマンディー・ニーメン、リムーザン等の部隊で、各部隊は独立戦争中のベトミン軍への空爆に参加した。


少数はアメリカでも爆撃機からの射撃練習用(RP-63「ピンボール」)として使われており、防御機銃手の技量向上に一役買っていたという。


本機を運用したこれらの3国に一致する証言として整備性・オイルクーラーに難、弾切れ時のフラットスピン癖が指摘されている(機首内の弾薬だけで結構な重量があり、それを撃ち切るとテールヘビーになる設計的欠陥があった)。


総じて言えば1942年~44年の迎撃戦においてなら活躍の余地があったが、長駆侵攻が主任務

となった大戦後半ではもはや完全に時機を逸していたようである。


派生型について編集

XP-39-BE編集

アリソンV-1710-17(E2)エンジンを搭載しており、これはGE製B-5スーパーチャージャーに対応したもの。2挺の12.7㎜機銃、1挺の25㎜機銃を搭載する予定だったが、実際には武装されず、後にXP-39Bへと改造された。


XP-39B編集

前述の機体を改造したもの。NACA風洞実験で得られたデータを取り入れて、若干の設計変更が入った。胴体延長・翼幅短縮され、エンジンからはスーパーチャージャーが取り外される。


YP-39編集

12機が製作されたテスト型。XP-39Bからは尾翼が拡大される。エンジンはV-1710-37(E5)で、最初の2機は37mmモーターカノン・12.7mm機銃・7.62mm機銃で武装した上で引き渡された。


YP-39A編集

高高度用のV-1710-31を搭載する予定だったが、結局はYP-39として完成する。


P-39C編集

YP-39のエンジンをV-1710-35に換装したもの。防弾装甲や自己防漏燃料タンクを備える。20機が完成したものの、残り80機の生産は間もなくP-39Dに切り替わった。


P-39D-BE編集

P-39Cから攻撃力・防御力が強化され、約110kgもの装甲が追加された。武装も37㎜機関砲・12.7mm機銃(2挺)に加え、主翼の7.62mm機銃が4挺に増えた。60機生産。


P-39D-1編集

ソ連へのレンドリース用に、37㎜機関砲をイスパノ20mm機銃に換装したものだが、実際には1機のみがソ連へ送られた。336機生産、後に26機が偵察仕様(P-39D-3)へと改造された。


P-39D-2編集

エンジンをV-1710-63とし、再び37㎜機関砲に対応した型。胴体下には増槽や爆弾も搭載できる。158機が生産され、少なくとも50機程度はソ連に送られた。11機は偵察仕様(P-39D-4)へ改造。


XP-39E編集

3機がP-39Dより改造された試験機。コンチネンタルⅠ-1430-1エンジンを予定していたが、実際にはV-1710-47に落ち着いた。地上・空中で様々な改設計を試される一方で、P-63用に胴体を延長したものもある。


P-39F-1編集

定速3̪肢プロペラを装備するもので、排気管が12に増えた。229機生産。


P-39F-2編集

後部胴体にカメラを装備する偵察機。27機改造。


P-39G編集

P-39D-2に、V-1710-63(E6)とエアロプロダクト製プロペラを適用したもの。実際には生産されず、設計はP-39K~Nに活かされた。


P-39J編集

P-39FにV-1710-59(自動ブーストコントロール付き)を搭載したもの。25機生産。


P-39K-1編集

P-39D-2にV-1710-63(E6)とエアロプロダクト製プロペラを装備したもので、210機生産。うち50機がソ連に送られた。


P-39K-2編集

後部胴体にカメラを装備し、下部に装甲を追加したもの。6機改造。


P-39K-5編集

P-39Nのための試作機で1機改造。


P-39L-1編集

カーチス製プロペラを装備し、主翼下にロケット弾を装備できる。250機生産。


P-39L-2編集

P-39L-1に後部胴体カメラ、装甲を追加。11機生産。


P-39M-1編集

V-1710-87エンジンとカーチス製プロペラを装備し、高高度性能向上を狙ったが効果は薄かった。240機生産。


P-39N編集

V-1710-85(E8)とエアロプロダクト製「エアロプロップ」プロペラを装備。

2,095機生産。同一形式で初の大量生産型となる。


P-39Q編集

主翼の7.62mm機銃4丁を生産段階から除去し、12.7機銃を主翼下のゴンドラに追加した。

これにより武装は37mm機関砲+12.7mm機銃4丁となった。しかしソ連では機動力低下を嫌ってゴンドラを外すケースが多かった。3,696機生産。その後マナーチェンジ版が700基ほど生産された。




関連リンク編集

レシプロ戦闘機 アメリカ ソ連

P-63

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