加藤友三郎
かとうともさぶろう
戦前日本の政治家、海軍軍人。
日本の政治家、海軍軍人。1861年4月1日、安芸(現在の広島県)生まれ。
海軍軍人として、日清戦争では防護巡洋艦「吉野」の砲術長(大尉)として黄海会戦に参加、また日露戦争では連合艦隊参謀長(少将)として東郷平八郎司令長官を補佐した。
戦後も海軍次官や呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官などを歴任。
その後、第2次大隈重信内閣・寺内正毅内閣・原敬内閣・高橋是清内閣と4つの内閣で海軍大臣を務めた。
大正10年にはワシントン会議に首席全権と参加。その痩身から各国代表に「ロウソク」と侮られていたが、当時海軍内で(無理矢理)推し進められていた八八艦隊計画を潰し、軍備縮小に賛同したことから「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスを持った提督)」として称賛された。
1922年(大正11年)には内閣総理大臣に就任したが、翌年、在職中のまま死去。享年63歳。
内田康哉外相が臨時首相となったが、折悪しく8日後に関東大震災が発生し、次の山本権兵衛内閣が成立するまでの間、未曽有の大災害の中2日間指導者不在という事態に陥ってしまった。