神風型駆逐艦 (初代)16番艦「夕立」
1906年佐世保海軍工廠で竣工。第一次世界大戦、シベリア出兵に参加し、1924年に掃海艇編入。1928年除籍。
白露型駆逐艦4番艦「夕立」
(※メイン画像)
1934年に佐世保海軍工廠で起工し、1937年1月に就役。
太平洋戦争中は、第2艦隊第4水雷戦隊の第2駆逐隊を「村雨」「春雨」「五月雨」と共に編成、上陸活動の支援や通商破壊戦、ガダルカナル島への輸送作戦(鼠作戦)にも従事した。
1942年11月の第三次ソロモン海戦が最期の戦場となったが、夜に紛れて味方艦隊を包囲しようとしていた敵艦隊に妹艦の春雨と共に突撃、敵味方の砲弾が雨霰と降る中に唯一残り奮戦。最初の雷撃から航行不能となる32分の間に米軍の巡洋艦・駆逐艦を多数破壊・航行不能に追い込んだ。
当然、乗組員にも犠牲は出たが、艦長含む生存者を「五月雨」・「雷」らが救出。
完全に航行不能状態の夕立は海上に放棄され、重巡洋艦「ポートランド」に撃沈された。
ただし、当海戦は情報が錯綜しており、同じような逸話のある綾波と違って、夕立の戦果は確証が少ない。
米軍側で確認されている夕立単艦の戦果はポートランド中破のみであり、駆逐艦「スティレット」によって撃破されたとされている(その後ポートランドに撃沈された)。
駆逐艦長・吉川潔(きっかわきよし)
前述の突撃で戦果を挙げた夕立の駆逐艦長。
何隻もの駆逐艦の艦長を経験してきた優秀な人物で、人望も厚かった。
夕立着任前、陸上への異動命令が出ると現場の水上勤務を嘆願し、将官への出世より駆逐艦を心から愛した帝国海軍のキングオブ駆逐艦長。
勇猛果敢で知られ、航行不能になった夕立を動かす為にハンモックを帆のように張るように指示。戦意高揚した乗組員たちと共に夕立を駆り、更なる戦闘の続行を望んだという(※)。
しかしその望みが叶うことはなく、総員夕立から離脱する。
その後、負傷が原因で教官になるよう命を受けるも、それを辞退して間もなく駆逐艦「大波」の艦長としてソロモン海へ舞い戻る。
不幸にもレーダーを有効活用し始めた米駆逐艦隊に先制攻撃を受け、大波と乗組員と共に海の底へと沈む。後に二階級特進の名誉を受けた。ちなみに日本海軍には「駆逐艦が軍艦ならば ちょうちょトンボも鳥のうち」と言われるほど「艦艇」を卑下する傾向があった(日本海軍において「軍艦」とは戦艦や空母、重・軽巡などを指し、駆逐艦や潜水艦は「艦艇」とされた)。そんな大艦巨砲主義の日本海軍において戦死後二階級特進の栄誉に輝いた駆逐艦長は彼ただ一人である。
※これは白い帆布のハンモックを帆の代わりにした為、「白旗を掲げているのに戦闘続行や航行」するという戦時国際法違反になる。ぶちキレたポートランドの乗員により撃沈されてしまったのも已むなしだろう。
11月13日
奇しくもこの丁度1年前の1941年(昭和16年)11月13日には、戦艦ビスマルク撃沈の功労者である空母アークロイヤルが、潜水艦U-81から雷撃されている。アークロイヤルは翌日力尽き横転沈没した。
キング・オブ・駆逐艦長吉川潔以下の夕立乗員もさることながら、遭遇した仇敵を逃さず撃沈に追い込んだUボート乗りの根性も凄まじい。
そして連合軍とにとっては「もう11月13日イヤっ!」ってなもんだったろう。だが幸いにして(?)昭和18年の11月13日にはこれと言った特別な事件(戦闘)は起きなかった。
が、さらに翌年の昭和19年11月13日には、マニラ湾内にいた木曾を空襲した結果、着底させてしまい撃沈判定を喪うという珍事が起きている。
ちなみに11月13日は茨城県民の日(つまり茨城県が誕生した日)でもある。
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