概要
木曾義昌は[[[木曾義康]]の嫡男として1540年に産まれる。木曾氏は木曾義仲の子孫を自称しているが、南北朝時代の頃にそのような家系図が作られたらしく、本来は藤原秀郷の血を引く一族らしい。
義昌が生まれた頃の信濃は守護である小笠原氏が信濃1国を支配を出来ずに、諏訪氏や村上氏、海野氏等が激しく領土争いを起こし、隣国甲斐では武田信虎が武田晴信によって追放されたりする中、中立独立を保っていた。
武田氏の勢力圏の拡大共に対立しゲリラ戦で武田軍を苦しめるも、1555年には力及ばず義康・義昌父子は武田氏に敗北して臣従を余儀なくされる。しかしながら、晴信も義康・義昌の武勇には1目置いたようで、娘である真理姫を義昌の元へ嫁がせている。その後木曾谷は武田氏の美濃・飛騨方面の再重要拠点に位置付けられ、義昌は先鋒として活躍している。
1572年に信玄の西上作戦が始まると、秋山虎繁と協力して織田領の岩村城を陥落させ、さらに[苗木城]を落城させる。信玄は翌年亡くなり義兄である武田勝頼が家督を継ぐと勝頼をよく支え、得意のゲリラ戦で織田軍を苦しめ中山道の守りを担った。
が1581年に高天神城が落城した際に勝頼は援軍を送らず見殺しにしてしまう結果になった為、義昌は東濃の遠山氏を通して織田信長・信忠親子に内通、翌年1582年には武田を見限り織田方に着く。この際に、武田に甲府に人質としていた義昌の70歳の母や嫡男を処刑されているが、義昌は武田滅亡後に本領安堵された。
本能寺の変で信長が倒れると、上杉景勝、北条氏直、徳川家康と次々と鞍替えをし、最終的は豊臣秀吉に臣従。1590年には木曾谷から上総へ1万石で転封となり1596年頃に病死した。