概要
1972年6月13日生まれ。父は現役時は11戦2勝ながら産駒には地方のダートにおいて好成績を残した馬もいるファラモンド、母は現役時30戦5勝で産駒では桜花賞馬ニットウチドリを輩出したカブラヤ。
全妹に1979年のエリザベス女王杯を勝ったミスカブラヤがいる。
また後に活躍した逃げ馬ダイタクヘリオスとは、母親つながりで親戚である。
1974年にデビューし、二戦目にて逃げ戦術を確立して初勝利を飾る。
1975年、ジュニアCを10馬身差で圧勝し前年から3連勝。
東京4歳S(現共同通信杯)ではテスコガビーとの対決を制し、後の牡・牝二冠馬同士の史上に残る名勝負となる。
弥生賞を制して乗り込んだ皐月賞では、1000m通過58秒9という当時の芝の質を考えれば異常なラップで逃げ切り、「狂気のハイペース」「殺人ラップ」と称される。
続いてNHK杯では逃げず、大外を回っての差し切りで6馬身差の圧勝。
日本ダービーでは皐月賞より距離が長いにもかかわらず1000m秒58秒6という更なるハイペースで逃げを打つ。今では考えられない28頭立てという大レースだったが、ほぼ全頭がカブラヤオーのハイペースのせいでフラフラのバテバテになり、カブラヤオー自身も完全にバテてヨロヨロだったにもかかわらず、他の馬が近づいてくると再加速して逃げ切った。あまりの必死さに観客どころか実況者までも応援してしまったほどの、壮絶な二冠達成だった。
この後蹄鉄を交換する際に蹄を削りすぎたせいで屈腱炎を発症し、1年ほど休養。そのために菊花賞に出られず三冠はならなかったが、この年の年度代表馬と最優秀4歳牡馬を受賞している。
1976年にはオープン戦勝利し9連勝、この9連勝はJRA発足後の中央平地競争では現在も最多記録である(地方交流を含めればスマートファルコンとタイ)。
復帰2戦目のオープン戦スタートでゲートに頭をぶつけ脳震盪を起こし11着、生涯唯一の着外となる。その後2連勝した後、屈腱炎が再発したため引退し種牡馬入りした。通算戦績13戦11勝。
外国産の種牡馬が持て囃される時代であり、またカブラヤオー自身の血統が地味だったことから種付け料はなかなか上がらなかった。しかしそんな逆風の中でそれなりの成績を残し、ミヤマポピー(タマモクロスの半妹)が1988年のエリザベス女王杯を勝ったことでGIホースの父となった。他には1986年のダービーで死闘の末2着となったグランパズドリームなどもいる。
2003年8月、老衰により永眠。享年31歳の大往生だった。
狂気の逃げ馬
カブラヤオーを語る上で欠かせないのが、その特徴的な戦術。
一言で表すなら、逆噴射装置の実装されていないツインターボ。
オーバーペースで他馬の足を乱し、周りをヨレヨレにして一頭だけ走り切る。
速度特化や技巧派の走りではなく、破滅的あるいは殺人的と表現するべき狂気的大逃げの戦法(別名「玉砕戦法」)を得意とする。実際、皐月賞の際にカブラヤオーに突っかかったレイクスプリンターは余りのハイペースに足を壊し、予後不良に見舞われることとなった。
現役当時はその戦術を採った理由は明かされなかったが、引退後に幼少時に他馬に蹴られて、馬込みを極端に怖がる様になったために編み出された戦法であると明かされた。
これは弱点でもあるため現役時代は重要機密だったようだが、皐月賞でもダービーでも危険を承知で競りかけてくる馬がいたため、他陣営にも薄々勘付かれていたのかもしれない。公式に明かされたのは引退からしばらく経った後である。
東京4歳Sでは主戦の菅原泰夫騎手がテスコガビーの方に騎乗しており、菅原騎手はカブラヤオーの弱点を周囲に知られないようにとかなり気を使いながらレースしていたらしく、本気で勝負していたら結果は違ったのかもしれない。
レースの様子を見ると馬群恐怖症というよりもはや馬恐怖症のレベルであり、近づかれるたびに右へ左へヨレるほど。当時は斜行への処罰がさほど厳しくなかったが、現代であれば降着や騎乗停止もあり得たかもしれない。デビュー戦では普通の競馬をしようとしたら怖がって外側の柵まで逃げていったらしい。それでも結果は2着に収まっている。どうせ逃げるのならと逃げの戦法を取ったら、自分から全力で逃げてくれた結果あの狂気と言われる逃げが出来上がった。もちろんそれで勝てるというのだから、心肺機能の高さも想像に難くない。加えて屈腱炎の原因は人為的ミスだったため、無茶苦茶な走りに耐えられる屈強な脚を持っていたことにもなる。
漫画・みどりのマキバオーにおいて、ミドリマキバオーがダービーで逃げ戦術を取った時、飯富昌虎調教師がこの馬を引き合いに出してきた。
『1万頭に1頭という強い心臓とここ一番の勝負根性…』