ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

屋代景頼の編集履歴

2022-02-22 00:03:52 バージョン

屋代景頼

やしろかげより

屋代景頼とは、伊達政宗に使えた側近であり、後に重臣となった。1563~1608。

概要

屋代景頼は、1563年出羽国に産まれた。当時の屋代家は領地を没収されていて、衰退していた。


そのような状況下で景頼は1574年片倉小十郎ら共に伊達政宗の側近となり、将来政宗を支える重臣の1人としての礎を築く。


1584年には家督を継ぎ、様々な合戦で武功を上げて行く。1590年に没収されていた領地を与えられ、屋代家の再興に成功する。


1591年に葛西・大崎一揆が起きると、一揆勢の籠る城に積極的に攻め立て、降伏した一揆勢を子供や老人を含む全ての人間を全て皆殺しにした。


1592年に朝鮮出兵により、政宗が国本を離れた為留守居を命じられる。後には多く重臣が国本を離れた為、景頼の権力は強大化し、景頼の出す書状や判物が政宗の出す判物と同じくらいの効力を持った程であった。


1600年に関ヶ原の戦いが起きると主政宗共に東北地方で東軍方に付き、最上義光の援軍として上杉景勝を牽制したり、上杉方の城を攻め落としたりしている。


1601年には留守居としての権限は景頼の元から、無くなるものの以降も伊達家の重臣としての立場には変わりなかった。


しかし1607年突如して改易並びに追放扱いとなり、1608年近江で病死した。享年46


戦国大戦

「1582 日輪本能寺より出ずる」より参戦。

伊達家所属の2コスト武力8統率3竜騎馬隊、で気合持ちとやや低統率ではあるものの、2コスト武力8気合持ち足利義輝の統率4に次ぐ数値であり、何とか伏兵やダメ計に耐えてくれるのでスペックとしては良好。


イラストはかなり狂気じみており、同コスト同武力同統率の武田の誰かさんとキャラクター性が似ている。


計略は士気5の撃滅の殺意。武力が2上がり、その後敵を倒すごとに武力+2と兵力が30パーセント回復するというもの。計略故に瞬間的な殲滅力には欠けるものの、計略時間も長く気合持ちの生存力の高さを利用すれば、とんでもなく武力の高くなった景頼を使って敵軍を撃滅出来るだろう。


なお、竜騎馬は本来タッチ突撃は出来ないが一部の計略使用でタッチ突撃が可能になる、その際の景頼の突撃ボイスは必見

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました