屋代景頼
やしろかげより
生没年:1563年~1608年
屋代修理の次男。通称は勘解由兵衛。
屋代家は伊達尚宗の時代には宿老を務めたほどの家だったが、景頼が産まれた頃は領地を没収され衰退していた。
1574年、景頼は伊達輝宗の命で片倉景綱らと共に嫡子梵天丸(伊達政宗)の側近となり政宗を支える重臣の1人としての礎を築く。
1584年には家督を継ぎ、様々な合戦で武功を上げて行く。1590年には没収されていた領地を与えられ、屋代家の再興に成功した。
1591年に葛西・大崎一揆が起きると、一揆勢の籠る城に積極的に攻め立て、降伏した一揆勢を子供や老人を含む全ての人間を全て皆殺しにした。
1592年に朝鮮出兵により、政宗が国元を離れた為留守居を命じられる。後には景綱を初め多く重臣が国元を離れた為、景頼の権力は強大化し、景頼の出す書状や判物が政宗の出す判物と同じくらいの効力を持った程であった。
また、伊達成実が出奔した際、角田城接収に赴いた時には抵抗した成実の配下を討ち取っている。
1600年に関ヶ原の戦いが起きると主君政宗と共に東軍方として活動。最上義光の援軍として上杉景勝を牽制したり、かつて居城にしていた上杉方の北目城を攻め落としたりしている。
1601年には留守居としての権限は景頼の元から茂庭綱元に移ったために権限は無くなるものの以降も伊達家の重臣としての立場には変わりなく要職に就いていた。
しかし、1607年に突如して改易され追放された。その後は越前北ノ庄の結城秀康に仕えたが政宗が奉公構を出したため退去した。秀康の紹介で近江高島の佐久間安政(盛政の弟)の元に赴いたが1608年に病死した。享年46
女子どもにも容赦無かったとされる景頼だが、伊達小次郎の成敗を命じられた時には泣いて辞退したという。
信長の野望シリーズ
「覇王伝」から登場。基本的に知謀は高めだが戦闘はやや高めで統率や政治は低い傾向にある。また義理が低くで野望も高めと使い勝手は悪い。
戦国大戦
「1582 日輪本能寺より出ずる」より参戦。
伊達家所属の2コスト武力8統率3竜騎馬隊、で気合持ちとやや低統率ではあるものの、2コスト武力8気合持ち足利義輝の統率4に次ぐ数値であり、何とか伏兵やダメ計に耐えてくれるのでスペックとしては良好。
イラストはかなり狂気じみており、同コスト同武力同統率の武田の誰かさんとキャラクター性が似ている。
計略は士気5の撃滅の殺意。武力が2上がり、その後敵を倒すごとに武力+2と兵力が30パーセント回復するというもの。計略故に瞬間的な殲滅力には欠けるものの、計略時間も長く気合持ちの生存力の高さを利用すれば、とんでもなく武力の高くなった景頼を使って敵軍を撃滅出来るだろう。
なお、竜騎馬は本来タッチ突撃は出来ないが一部の計略使用でタッチ突撃が可能になる、その際の景頼の突撃ボイスは必見
政宗さまと景綱くん
第20話で初登場。
史実を反映させてか「粛清」を特技としており、伊達家最凶の男として描かれる。
小手森城の撫で斬りでは場内にいた侍女達に対し、「女を手篭めにする気は毛頭ない」としつつも、「あるのは「粛清」のみ。ひと思いに殺してやれ」と彼なりの慈悲を見せつつ任務遂行に当たった。また粟ノ巣の変において、輝宗を死なせたことで怒り狂った政宗の命により切り刻んだ畠山義継(二本松義継)の*遺体の四肢を切断した上で晒しものにした。
一方で小田原参陣を目前に、政宗から小次郎粛清の命が下されるも主君の弟を討つことはできないと史実通り拒絶。景綱・成実と共に政宗・小次郎の決闘を場外から見守った。
姫武将政宗伝ぼんたん‼︎
第3巻で初登場。
政宗の正体が女であることを知っている人物の1人。
伊達家に臣従しようとした大内定綱に対し、政宗が女であることを明かし、離反させて戦に持ち込ませたり、伊達家の秘密を明かして定綱に離反を唆した張本人と見て接触してきた畠山義継に対し、逆に精神的に追い詰め粟ノ巣の変の遠因を作るなど、政宗を黒く染めることを望むかのごとく不穏で危険な行動をとっている。
なお小手森城の撫で斬りには意欲的だったが、政宗から「お前は楽しむからな」という理由で別の指令を下され、参加を認められなかった。