概要
木曽の豪族中原兼遠の息子。通称は四郎。
兄に樋口兼光(次郎)、妹に巴御前、弟に落合兼行(五郎)がいる。
母が木曾義仲の乳母であった為、義仲とは乳兄弟にして幼馴染であった。
年が近い事もあって義仲とは通常の主従以上に深い信頼関係にあり、義仲に特に忠義を尽くし活躍した。
『義仲四天王』に兄・兼光と共にその名を連ねている(あとの二人は根井行親と楯親忠)。
木曾義仲を挙兵すると兼平もそれに従い、横田河原の戦いで城助職(坂額御前の兄)を破る。
寿永2年(1183年)、般若野の戦いで別動隊の大将を務め、平氏軍を撃破。倶利伽羅峠、篠原と転戦した。
7月には平氏を都から追放して義仲と共に入京。11月、後白河法皇と義仲が対立すると、義仲の命に従い「法住寺合戦」で法皇方を撃ち破り後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉することに成功した。
しかしその後、鎌倉から攻め上がった源義経・源範頼の軍に義仲軍は敗走。最後は近江国粟津で範頼の軍と戦い義仲共々戦死した。
「粟津の戦い」が描かれた『平家物語』巻第九「木曾最期」で兼平は大軍を前に弱気になる義仲に対し、「兼平一騎を千騎の武者だと思ってくださいませ」と勇気づけ、義仲がせめて最期は共に自害しようと言うと、「殿はもうお疲れです。朝日将軍木曽義仲ともあろう者が郎党の手によって討たれたとあれば後世まで名が傷つくでしょう」と述べ、自ら囮となり敵の大軍に突撃した。しかし、義仲が流れ矢に当たって討死。敵軍の歓声を聞いた兼平も、刀を喉に突き刺して自害した。享年33。
妹の巴御前が有名すぎる一方で兼平は今ひとつ知名度が低いが、義仲が最も頼りにする家臣であった。