「もし今陛下が命を助かることをお望みなら、陛下よ、何の困難もありません。私たちはお金を持っていますし、目の前には海があり、船もあります。しかしながらお考え下さい。そこまでして生き延びたところで、果たして死ぬよりかは良かったといえるものなのでしょうか。私は『帝衣は最高の死装束である』という古の言葉が正しいと思います。」
概要
東ローマ皇帝アナスタシウス1世治下の500年頃、コンスタンティノープル競馬場(ヒッポドローム)の「緑」チームに属する熊使いアカシウスの娘の一人として誕生。なお、誕生地はコンスタンティノープルまたはキプロス、シリア、小アジアのパフラゴニアと諸説がある。姉コミトと妹のアナスタシアがおり、母は踊り子(女優)をしていた。
503年頃に父のアカシウスを失い、最初は同じく踊り子(女優)をしていた姉のアシスタントとして舞台に立ち、後に踊り子(女優)としてデビューし、シリアの官僚ヘセボラスと結婚したとされる。
その後、最初の夫ヘセボラスとともに当時東ローマ領内のリビアに赴くも夫の任地で離婚されて捨てられてしまい、怪しい踊り子稼業をしながら同じく当時東ローマ領のエジプトなどを経由してコンスタンティノープルに戻ったとされる。
その後、元老院議員で皇帝ユスティヌス1世の養子で腹心だったペトルス・サッバティウス(後のユスティニアヌス1世)に一目ぼれされる。しかし、法律上元老院議員と踊り子の結婚は不可能であったために、多くの貴族やユスティヌス1世の皇后エウフェミアの反対に逢いながらも法律を改正して525年頃に結婚した。
なお、テオドラには非嫡出子のヨハネスとテオドラの2子がいたが、共にユスティニアヌス1世の養子となる。
更に525年8月1日に夫のユスティニアヌス1世が即位すると、同年8月9日に東ローマ帝国の皇后となる。ちなみに、養舅のユスティヌス1世と夫のユスティニアヌス1世は地方の農民出身、ユスティニアヌス1世とテオドラとの結婚に反対したユスティヌス1世の皇后エウフェミアは解放奴隷出身であったために、東ローマ帝国では下層階級出身の皇帝と皇后が二代連続したことになる。
ニカの乱
こうして東ローマ帝国の皇后に昇りつめたテオドラであったが、貴族階級とのシガラミがない夫が財務長官ヨハネスや司法長官トリボニアヌスといった人気がないが有能な人材を登用したことがコンスタンティノープルでは不評であったことや532年に夫がコンスタンティノープル競馬場の「青」チームを贔屓しすぎた上に、「青」チームがチンピラ化したことが発端となり、ニカの乱が勃発する。
暴徒はコンスタンティノープル競馬場において先々代皇帝アナスタシウス1世の甥ヒュパティウスを対立皇帝として擁立。かつてアナスタシウス1世が市民暴動の際にやったのと同じ茶番も効果がなく、将軍ベリサリウスがヒュパティウス捕縛に一度失敗する。
プロコピオスの『戦史』いわく、腹心らが逃亡するか踏みとどまるかで割れる中、観念した夫が逃亡の準備をした矢先にテオドラが上記の言葉で諭し、これで考え直した夫ユスティニアヌス1世と腹心らがどうやって反乱を鎮圧するかで一致し、将軍ベリサリウスらが指揮した軍隊によるローマ帝国史上初の競馬場観客を巻き添えにした武力鎮圧に成功する。
こうして逃亡しても逮捕、処刑される可能性が高いローマ皇帝廃位の危機を夫とともに乗り越えることに成功した。
その後
このように、テオドラはニカの乱で重要な役割を果たし、ニカの乱鎮圧後にテオドラの主張により、対立皇帝に祀り上げられたヒュパティウスらが処刑されたり、彼女が単性論信者であったためにカルケドン派寄りの夫ユスティニアヌスが妥協するといった具合に国政に関与している。
自身の姪ソフィアと後に東ローマ皇帝となるユスティヌス2世の結婚をお膳立てしたり、ササン朝ペルシアのホスロー1世の妹と文通していたともされている。
プロコピオスの『戦史』の影響もあってか、後世の歴史家は彼女を「女帝」と呼ぶ者すらいたらしい。
548年6月28日に癌より夫より早く死去し、コンスタンティノープルの聖使徒教会に埋葬された。ユスティニアヌス1世との間に生まれた実子は早死した男児以外おらず、ユスティニアヌス1世の跡は姪婿のユスティヌス2世が継承している。