リトルボーイ
りとるぼーい
原爆のリトルボーイ
広島に投下された原爆の名称として知られる、人類史上初の実戦投入された核兵器。当時の広島市中心部に落とされ、およそ3キロ四方を壊滅、500メートル以内では地下室にいた数人を除き全滅させるなど、10数万人を即死、または半年以内に死に至らしめた、人を殺すには極めて効率的な「小さな」爆弾である。
爆心地付近の温度は3,000〜6000度にもなったと推定される。
1945年8月6日に広島市細工町付近に投下された。目標はT字で上空からでもよく目立った相生橋付近であったとされるが、風で流された結果病院の上空で炸裂することになった。
ただし、全長3メートル、重量は5トンあり、爆弾のサイズとしてはかなりの大型。B-29(爆弾搭載量は9トン)のような大型爆撃機にしか搭載できない。当時の日本への空襲で使用された焼夷弾のサイズはほとんどが数キロから大きくても200キロというレベルである。
通常の汎用爆弾でも1t程までが大半だった。
「ガンバレル方式」という、核物質を前後に分けて置いておき、起爆時に一体化させて核反応を起こす方式を採用している。ちなみに、ガンバレル方式は単純なしくみで設計が容易だが、核反応の効率が悪く、運搬機の墜落時に核爆発が起きる危険性も排除できないため、後の原爆にはあまり採用されていない。後の原爆は大半が爆縮レンズを使ったインプロージョン型(ファットマンと同じ)となっている(核砲弾では設計が容易な事や初期の技術でも細く作れたことから採用あり)。
「シンマン(痩せた男の意)」という名のガンバレル式プルトニウム原爆も開発されていたが、誤爆発などの可能性を消せなかったため開発中止になった。
今日、特に日本においては広島原爆が想起されることがもっぱらであり、よりによって8月7日(原爆投下の翌日)にこの名称が描かれたTシャツを着たアイドルや放送局が叩かれたことは記憶に新しい。
被害規模
爆心地の半径500m以内では地下室などにいた数人を除いて殆どが熱や爆風、高い放射線のため即死、即死しなかった人も多くが翌日までには死亡した。
1km以内でもその年のうちに9割が死亡している。
この範囲では高温やそれに伴う火災などで大火傷を負った人が多くまさに地獄絵図と化した。
半径2km以降の範囲を越すと倒壊を免れた建物も増え、爆心地近くより多少は被害も軽減したものの、放射性物質を含んだ「黒い雨」や粉塵での放射能汚染もあり、避難や救援活動で爆心地近くに立ち入って被曝した者も少なくない。
広島市外でも見通しの良い場所だと衝撃波や強い光が見られたという。
なお、爆心地にあった病院は職員患者とも全員が即死したものの、当時の院長が仕事で市外に出ていたため難を逃れ再建されており現在も営業中。その近くにあった産業奨励館は「原爆ドーム」という呼び名で遺構として展示されている。爆心地にあった病院の敷地の一角には、日本語と英語でこの付近の上空で原爆が炸裂した爆心地であることを記したプレートが、米軍がその後撮影した壊滅した広島の写真と共に置かれている。
また、当時は原爆の正体に関する情報が「新型爆弾」という以外になく対処法の知識が普及しておらず、そのため救援活動や親族の捜索のために市内中心部に後から入った人たちも高い放射線を浴びる被害を被った。これを入市被曝と呼び、特に放射線量が高かった投下後半月以内の入市者は被爆者として法的な保護の対象になりうる。詳細は原爆の項目を参照。
広島原爆を取り扱った作品
アニメ
児童文学
映画
- 原爆の子
- さくら隊散る