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西野朗の編集履歴

2022-09-25 00:14:33 バージョン

西野朗

にしのあきら

埼玉県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

1955年4月7日生まれ、埼玉県現さいたま市出身、浦和西高、早大卒。


1978年に日立製作所(現:柏レイソル)加入。1985年に日本サッカーリーグタイ記録の8試合連続得点をあげベストイレブンにも選出された。


1974年~1978年までサッカー日本代表に呼ばれている。

1990年に引退、1991年からU-20日本代表監督を務める。

1994年に、アトランタオリンピック本大会出場を目指すU-23日本代表監督に就任。本大会でブラジル戦での勝利(『マイアミの奇跡』、ブラジルでは『マイアミの屈辱』)で名を挙げる。しかし2勝1敗でブラジル、ナイジェリアに並ばれ、得失点差及び総得点でグループリーグで敗退する。(因みにナイジェリアは金、ブラジルは銅メダルを獲得する。)


1998年に柏レイソルの監督に就任、1999年にはナビスコカップ優勝。

2000年には2ndステージは鹿島アントラーズと最後まで優勝争いを繰り広げ、2位というクラブ史上最高の成績を残し(年間獲得勝ち点は1位であった)、自身初となるJリーグ最優秀監督に選ばれた。

2001年1stステージ終了後に成績不振を理由に解任。


2002年よりガンバ大阪の監督に就任。Jリーグ開幕以降タイトルと無縁だったクラブを上位陣に押し上げ、就任4年目の2005年にG大阪と自身にとっても初となるJ1リーグ優勝を達成し(2005年J1最終節)、2度目のJリーグ最優秀監督賞を受賞。

2008年にはAFCチャンピオンズリーグを制し、FIFAクラブワールドカップ2008準々決勝のアデレード・ユナイテッドFC戦では、日本人監督としてFIFA主催の公式大会で初めて勝利を挙げた。

更に2008・2009年と天皇杯連覇。

しかし2010・2011年と無冠に終わり2011年限りで契約満了。


2012年5月よりヴィッセル神戸の監督に成績不振による前任者の解任に伴い就任するも同年11月に解任。


2014年シーズンから名古屋グランパスの監督に就任。2シーズン指揮を執ったが好成績を残せず

2015年末、契約期間満了により退任。


2016年3月、日本サッカー協会(JFA)の理事に就任し、技術委員長に就任。

2018年4月7日、ヴァヒド・ハリルホジッチが突如として日本代表監督を解任され、2日後に就任。


2018年6月19日にサランスクのモルドヴィア・アリーナで行われたワールドカップロシア大会グループH初戦でコロンビア代表を2-1で下し、日本代表にとって2010年の南アフリカ大会以来となるワールドカップでの白星、またアジア勢がワールドカップにおいて初めて南米のチームから白星を挙げた。


2019年7月1日、タイ代表監督とU-23タイ代表監督の就任がタイ側より発表されたが翌日に否定。

しかし7月17日に正式に就任する事を発表された。

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