森繁和
もりしげかず
プロフィール
経歴
東都大学野球で活躍し1976年にロッテオリオンズから1位指名を受けるが拒否(当時はまだ千葉のチームではなかった)。
2年目から3年連続二けた勝利を上げるが、4年目からリリーフに転向。34セーブ、防御率1.48で最優秀救援投手となった。
1989年現役引退。
その後は西武、日本ハム、横浜を経て落合博満監督に見いだされ中日のコーチに就任。オレ流野球を支えた。
2011年にいったんチームを離れ、2014年に谷繁元信兼任監督の率いるドラゴンズのヘッドコーチに就任。
2016年谷繫監督の途中休養に伴い監督代行、翌年から正式に監督に就任。
しかし2年連続5位に終わり辞任した。
2019年から、球団シニアディレクター(SD)に就任、高校野球や大学野球などのアマチュア球界や、外国への視察を行い、選手の獲得調査、トレード、自由契約選手の獲得などの編成面を担当。
2019年10月1日に退任し退団、2020年からはJ SPORTS野球解説者とスポーツニッポン野球評論家として復帰。
余談
名前の区切り方は「森・繁和」なのだが、表記次第では「森繁」と区切れるため、主にファンからは「森繁」などと通称されることが多い。
容貌は正にヤのつく人そのものである。登板を終えベンチに戻ってきた投手(浅尾拓也など)に声をかける姿は恫喝としてネタにされていた。また、朝倉健太が自動車事故を起こした際、投手コーチだった森を呼んだのだが、コーチであることを説明するまでは相手の運転手からケツ持ちの人と勘違いされ、ビビられていたらしい。
しかし、冒頭画像(著書の表紙写真のパロディ)のような表情も見せるおじさんだったりもする。
落合中日のコーチとしては、投手事情を指揮した他にも、諸事情によりメジャーからの選手獲得に制約があったため、スカウトのためドミニカ共和国へ自ら飛んでいたことが特筆される。トニ・ブランコ、マキシモ・ネルソンなどを発掘している。しかし、容貌のせいかある滞在中、ピストルを3度も突きつけられたこともある。
ドラゴンズの応援歌としてあまりにも有名な燃えよドラゴンズ!であるが、初代の与那嶺要から現在の立浪和義まで半世紀の間に12人の監督が就任した中、唯一歌詞に使われていない監督である。