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概要編集

1981年6月11日、岐阜県岐阜市出身。


1999年、東邦高校から、3年生時春夏の甲子園に投手兼一塁手として連続出場。

夏の大会では後にチームメイトとなる福沢卓宏(滝川第二)と投げ合い、大会最速の149km/hの速球を記録し、ドラフト上位候補として注目される。

1999年のドラフトでは河内貴哉(広島東洋カープ)の外れ1位として、地元の中日ドラゴンズに1位指名されて入団。


当初はコントロールに難があった。ルーキーイヤーの2000年は、9試合に登板するも防御率14.02と不振。翌年も1勝も挙げられず5敗だった。


3年目に踏み込む足(左足)をすり足ぎみに出すことにより制球が安定、そのまま先発ローテーションに定着し、プロ初勝利を含めて11勝11敗の成績を残す。

しかし翌年は開幕後1勝4敗で5月に2軍落ち、5月末に右肘を剥離骨折が発覚し、シーズンは棒に振ってしまう。


2004年5月26日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で復活勝利。

日本シリーズのメンバーには入り、先発ではなかったが登板も果たした。以後は主に先発で活躍。2007年には53年ぶりの日本一に大きく貢献。アジアシリーズでは第2戦に登板し、6回2失点の好投で中日の初勝利を飾り、チームもアジア一に輝いた。


しかし2008年、右腕の血行障害であることが判明、克服はしたが2011年に怪我が判明し8月に右肘を手術、2001年以来となる無勝利に終わった。

その後はなかなか成績が残せなかったが、2014年、4月25日のヤクルト戦(明治神宮野球場)でシーズン初先発し、6回2失点で1403日振りに勝利投手となった。


2015年、開幕を一軍で迎えたが、救援で3試合に登板した後に、この年限りで現役を退くことを表明。9月20日に一軍へ復帰すると、同日の対巨人戦(ナゴヤドーム)の8回表1死1塁から、「打者1人限定」という条件で引退登板。前年までの同僚であった代打・堂上剛裕を相手にファウルフライで打ち取った。

通算成績は16年で65勝70敗1セーブ2ホールド。


引退後の2015年11月28日に、中日の球団職員として、チーム統括本部編成部に配属されたが、翌年に二軍投手コーチとして契約し兼任で活動。

2017年9月1日一軍の投手のコーチ陣の配置転換に伴い最終戦まで二軍投手コーチの登録のまま一軍へ同行、三日後に一軍投手コーチへ配置転換された。

2018年も一軍投手コーチを務めたが、成績不振から終了後契約せず、2019年から中日球団編成部のプロスカウト・ウエスタン担当として活動。

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