概要
アメリカ合衆国とエジプトの関係(アメリカがっしゅうこくとエジプトのかんけい、英語:Egypt–United States relations、アラビア語:العلاقات المصرية الأمريكية)は、アメリカ合衆国とエジプトの両国関係の事である。両国関係はイスラエルとパレスチナの紛争・テロ対策など、中東の地域的な問題によって大きく左右されてきた。2011年1月に発生したエジプト革命の余波でアメリカが論争に巻き込まれ、現在の政権の多くの反対者がシーシー大統領の支配を専制的であると説明している。アメリカと同盟関係にある。
両国の比較
国名 | 政体 | 現在の首脳 | 国土 | 人口 |
---|---|---|---|---|
アメリカ合衆国 | 大統領制 連邦共和国 | ジョー・バイデン | 962万9091平方キロメートル | 3億3189万3745人(2021年12月) |
エジプト | 半大統領制 共和国 | アブドルファッターフ・アッ=シーシー | 101万408平方キロメートル | 1億777万524人(2022年6月) |
歴史
初期
1848年8月に外交関係を樹立し、1849年3月にダニエル・スミス・マッコーリーが駐エジプト大使となった。1922年2月にエジプトがイギリスから独立すると、同年4月に新たに外交関係を樹立した。1921年10月以来就任していたジョセフ・モートン・ハウエルが、独立した後としては初めて駐エジプト大使となった。それまでの両国は非公式の外交関係を築いており、同年6月に大使の地位は特命全権公使に昇格した。エジプトがそれぞれオスマン帝国とイギリスに支配されていた当時、アメリカはエジプトとの取り引きを最小限に抑えていた。
1956年6月に就任したエジプトのガマル・アブデル・ナセル大統領は、その親ソ連・反イスラエル姿勢によってアメリカを敵対させた。しかしアメリカは同年11月にイギリスとフランスに侵略を直ちに強制終了させる事で、彼を権力の座に保つのを支援した。アメリカの政策はこの地域におけるアメリカとイスラエルの利益を支持する政府で、特にサダトとムバラクの2人の大統領を強力に支援する事であった。
冷戦時代
1952年7月のエジプト革命は、対外援助を送り続けたアメリカとの国家関係を変える事は無かった。アメリカはソ連とエジプトの緊密な両国関係に警戒し、ナセルの地域権力を弱める為にオメガ覚書を準備した。同年5月にエジプトが中国を承認した時、アメリカはアスワンダムの資金提供に関する交渉を終了し、ダムは1970年7月にソ連によって建設された。ナセルは1956年7月にスエズ運河の国有化を宣言し、同年10月にスエズ危機が勃発した。ダレス国務長官は運河を運営する為の国際コンソーシアムの創設を提案したが、ナセルはこれを拒否した。
1967年6月に発生した6日戦争では、イスラエルはエジプトが占領していたガザ地区とシナイ半島を含むパレスチナの領土のほとんどなどを占領した。アメリカはソ連の介入を防ぐ為に停戦の交渉を試み、平和協定と引き換えにイスラエルが占領地を返還する事を奨励する安保理決議242を承認したが、エジプトは戦争中にアメリカがイスラエルを支援したと非難した。この戦争でエジプトはアメリカとの外交関係を断絶し、リチャード・ノルテ駐エジプト大使がエジプトから追放された。
1970年9月にナセルが死去した後、穏健な後継者のアンワル・サダトは、イスラエルとの和平協定に向けてアメリカとの裏ルートの交渉を開始した。しかしイスラエルがスエズ運河の東岸から軍を撤収する事を望まなかった為、交渉は行き詰まった。1973年10月に第4次中東戦争が発生すると、エジプトはイスラエルに対する奇襲攻撃を実行し、エジプトはアメリカとソ連の共同による停戦の提案を拒否した。
1974年2月に両国は外交関係を回復し、同時にアメリカはシャトル外交に従事した。1975年9月にイスラエルとエジプトは、アメリカが仲介したシナイ暫定協定を締結した。1978年9月にカーター大統領の仲介でキャンプ・デービッド合意が締結され、これは1979年3月に締結されたエジプト・イスラエル平和条約に直接繋がった。サダトはアメリカの援助がイスラエルの紛争から解放され、地域の平和政策を追求する事を可能にした為、その目標に不可欠である事に気付いた。
冷戦終結後
2011年1月のエジプト革命の間にアメリカの政府高官は、ムバラク大統領とその政府に対し、改革を行い・暴力を控え・平和的な集会や結社などの抗議者の権利を尊重するよう求めた。同年12月にエジプトの兵士と警察が、国内外のNGO(非政府組織)の17軒の事務所を家宅捜索した後に両国関係は緊張した。2012年3月にカイロの司法当局が、9人のアメリカ人を含む17人の外国のNGO職員の渡航禁止を解除した後に両国関係は改善され始めた。
2012年9月にエジプトの抗議者たちはカイロのアメリカ大使館を襲撃し、アメリカ国旗を取り壊してそれをイスラムのシンボルの付いた旗に置き換えた。同年11月にバラク・オバマは、エジプトがイスラエルとの平和条約を締結して以来初めて、アメリカはエジプトのイスラム主義者主導の政府を同盟国又は敵とは見做さないと宣言した。別の事件でマーティン・デンプシー将軍は、アメリカとエジプトの軍事関係はイスラエルに対するエジプトの行動に依存すると述べた。
2013年7月にムハンマド・ムルシーが大規模な反乱を起こして打倒された際、両国関係は一時的に悪化した。オバマ政権はムスリム同胞団・その支持者と戦おうとするエジプトの試みを非難し、将来の軍事演習の中止・F-16戦闘機とAH-64アパッチ攻撃ヘリコプターのエジプト軍に対する引き渡しを停止した。これに対してエジプト政府は、取り締まりを非難するオバマ大統領の発言は「事実」に基づくものでは無く、暴力組織を強化して助長するものだと反論した。
2019年3月にアメリカのマイク・ポンペオ国務長官は、ロシア製のスホーイSu-35戦闘機を購入しないようエジプトに警告した。更に連邦議会の上院の予算公聴会で、「これらのシステムを購入する場合、CAATSA(敵対者に対する制裁措置法)は政権に対する制裁を要求する事を明確にした。」と述べた。
軍事
アメリカとエジプトの軍事協力は、おそらく両国の戦略的パートナーシップの最も強力な側面である。かつてアメリカ中央軍のアンソニー・ジニ元司令官は、「エジプトはこの地域へのアクセスを可能にする為、私の担当地域で最も重要な国である。」と述べた。エジプトはクリントン政権時代にアラブ世界で最も著名なプレーヤーであり、中東におけるアメリカの重要な同盟国であると説明されていた。エジプトに対する軍事支援は、ペルシャ湾のエネルギー資源の継続的な利用可能性を維持し、スエズ運河を確保する為の政権の戦略の一部と見なされていた。