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満洲事変の編集履歴

2012-05-27 20:24:36 バージョン

満洲事変

まんしゅうじへん

昭和6年9月18日に満洲で勃発した事変。満洲民族による満洲国が誕生する契機となった。満州事変とも。

満洲の天地

満洲族の王朝である清朝支配下において、満洲族の地である東三省(満洲)への漢民族の入植は厳しく規制され、19世紀中頃まで人口が希薄であった。しかしロシアの南下政策が顕著になってきた1860年に全面解禁し、山東省など中国本土から満洲への漢族入植が始まった。だが、清朝の弱体化に付け込んでロシアが権益を拡大、旅順大連の街や東清鉄道(後の南満洲鉄道)を築き、ここを拠点に、満洲に勢力を及ぼすようになる。


日本日露戦争で勝利し、ロシアより受け継いだ旅順大連の租借地、南満洲鉄道の租借地、南満州鉄道の運営によって次第に開発され、産業が起こり、関東軍により治安が確保されて、安全で豊かな地域へと変わっていった。


この間も中国本土から年間100万人に近い移民の流入は続き、人口は3000万にも及ぶようになった。もっとも満州国建国まで日本が満洲を完全に掌握することはできず、主権回復を目論む中国国民党、地元の軍閥やロシア・ソ連の勢力が交錯した。


満洲開発の中心となったのは日本で、莫大な資本を満洲に投下した。当時の日本の人口過剰は深刻な問題であったので、満洲は将来の日本人が生きるための生命線へと位置付けられていった。だがこれにより、内地の開発に投下されるべき資源が満洲や朝鮮に回され、巨大な軍事力(関東軍)を満洲に置いておかなければならなくなった。これは、工業化が進みはじめたばかりの当時の日本にとって大いなる負担・足枷にもなった。そのような犠牲が正当化されたのは、満洲の豊富な資源や土地や人口が将来の日本の発展に資すると考えられたからであり、また満洲の権益は日本が存亡をかけて戦った日露戦争の勝利によってもたらされたものであり、手放すことはできないと考えられたからである。


地元軍閥の中で優位に立ったのは日本の支援を受けていた張作霖であり、中華民国領土でありながら政府の影響力が及ばない半自治領・半植民地的な地域となっていった。


事変前夜

こうして日本が営々と満洲開発に取り組んできた時、満洲に目をつけ、手を出してきたのがアメリカイギリスで、鉄道建設に乗り出して満洲鉄道を封殺しようとした。

日本の絶大な援助で大きな力を持っていた張作霖は、今度はアメリカ・イギリスと結びつき、両国の策謀に乗せられるようになってしまった。

張は明治28年に結んだ日本と清国との満洲鉄道並行線敷設禁止協定を破り、満洲鉄道と並行する鉄道を、西暦1928年に建設した。

さらに張は、日本人の商租権・満蒙移住権・工場経営権などを次々と蹂躙破棄し、各地で日本人の圧迫を開始した。

また、張作霖は、満洲百万の朝鮮人を迫害し、また日本人・朝鮮人と商取引をして家屋・農地を貸与する満洲人・中国人を投獄するなどの迫害と圧迫を加えていった。

そうして、満洲への共産主義勢力の拡大と共に、各地に排日・侮日運動を起こさせ、日本人の生命や財産が危険にさらされることになった。

この緊迫した状況の中で、どんな小さな火花でも、大爆発の原因となりうる程の状態となった。


米英二国は張作霖を裏から操り、煽動指嗾して、排日運動に駆り立て、その隙に乗じて事故の勢力を満洲に拡大しようとしていた。

昭和3年、張作霖は蒋介石の北伐で追われて満洲の奉天に向かう途中、列車爆破によって暗殺された。

これまで日本の関東軍の陰謀と言われてきたが、新資料によってコミンテルンの仕業ではないかとの報告が繰り返され、少なくとも関東軍の陰謀とは断定できなくなっている。


張作霖の死後、日本に恨みを持った息子の張学良が立ったが、張は南方の蒋介石の南京政府と合流した。

蒋は中国の中心に立ったが、イギリスとアメリカはここで財政的に蒋介石政権を完全掌握し、この蒋と張の合作を機に一段と勢力を伸ばして、満洲鉄道圧迫策を強化し、西暦1930年には満洲鉄道壊滅政策として、満洲鉄道を完全に包囲する大計画を立て、それに着手した。

これもまた、前述の条約の違反であって、日本は講義を繰り返した。

このために満洲鉄道は大変な危機を迎え、昭和5年には前年度利益の3分の1の減収となり、翌年に2000名の従業員の解雇という非常事態にまで至った。


更に張学良は、イギリス・アメリカとの連携の他に、容共政策をとり、全満洲にソ連からの共産主義運動が流れ入り、一層大きな混乱が生じた。

昭和5年、満洲北部で金日成率いる共産主義者が発電所を急襲し、日本領事館を襲い、同じ朝鮮人を殺傷するなど、満洲における治安は極度に悪化していった。

特に、百万人の在満朝鮮人は非常な圧迫を受け、張学良は満洲から朝鮮人を追い払おうとする悪逆非道な政策を行い、また、日本人に家屋田畑を貸与する者は投獄すると命令し、その結果として多くの日本人が追い払われ、満洲における日本の立場は風前の灯火となった。


事変と建国

昭和6年、中村震太郎大尉が中国側官兵により虐殺される事件が起こり、日本人の隠忍も頂点に達した。

約一ヶ月後、柳条湖での満洲鉄道爆破事件となり、日本軍と中国軍は事変を起こすに至った。

度重なる中国側の日本人圧迫に対して、日本は遂に決起することになり、張学良の横暴を極めた全満洲を関東軍の手によって制圧し、横暴を鎮めて平和を回復したのだった。


こうした満洲の窮乏の中で、在満民衆による満洲独立の要望は非常に高まっていき、満洲国建国へと進んでいく。

満洲を中国本土と切り離すことは結局、日本・中国間の紛争を少なくし、また満洲国という安定した国家を築くことにより、米英の満洲侵略を防ぎ、ソ連共産主義の南下を防ぎ、中国の混乱を少なくし、ひいては日本と中国が提携していくにも、アメリカとイギリスの謀略が及ばない確固たる天地を作る必要があった。

それが満洲の民衆による希望と願いであった。


独立運動に大きな力を振るった于沖漢は、かねてより「保境安民」(満洲を中国から独立させ、民衆の生活と平和を守ること)を唱え、「排日政策は満洲を保全する策ではない。満洲は日本との親善を結ぶことによってのみその自立が可能なのである。国防の如きは宜しく日本に委任し、経済的連携共助して、専ら国利民福の招来を図るに如かず」という信条で満洲建国に邁進した。

当初日本政府はこうした満洲独立運動と一線を画していたにも関わらず、その独立の機運が満洲各地で巻き起こっていたことは記憶に留めておく必要がある。


満洲国三千万人民衆の希望の中、大同元年(昭和7年)3月1日、満洲国は独立を宣言した。

満洲はそもそも中国人のものではなく満洲人の地であった。

満洲には清朝最後の皇帝・溥儀が招かれて皇帝になった。

溥儀はそれ以前から父祖の地に戻り皇帝となることを希望していたが、当時の日本政府は慎重な外交を重んじ、溥儀の希望通りに動かなかったのであった。


建国後

これに対し、満洲侵略の画策をめぐらせていた英米仏等を主要国とする国際連盟は、当然の結果として日本を侵略国と断定し、満洲国の不承認を決議した。

日本は国際連盟の不正を糺し、米英本位の国際連盟を脱退した。

日本は満洲国の育成建設に邁進し、満洲国民衆は理想に燃え、建国当初の創業にいそしんだ。

こうして満洲は将来人口一億人を超える国となり発展するだろうといわれ、その後発展を続けて、外国は当初の批判に関わらず、この事実の前に相次いで正式承認していった。


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