背景
壇ノ浦の戦いで平家追討が終息した1185(文治元)年末、後白河法皇は源義経に源頼朝の追討宣旨を下し、これに憤慨した頼朝は北条時政に多数の兵を率いて上洛させ、院に恫喝を加えた。これに屈した法皇は、翻って頼朝に義経・源行家の討伐を命じ、彼らの捜索のために各地に守護・地頭の設置・任命権を与えた。
学説・評価
守護
守護の正式職名である「惣追捕使」は、内乱時、平家追討促進のために設置された、内乱の終息と共に撤廃されるべき臨時職であった。しかし治承寿永の乱終息後、守護設置及び惣追捕使再補任が各地で行われている。
行家殺害(1186)~義経殺害(1189)間に、頼朝の積極政策により、臨時職であった守護の存続・制度的強化が図られ、高橋典幸はこれを「戦時体制に由来する制度の再編成」を表現している。
地頭
地頭もまた、内乱期の軍事組織に由来する制度であり、元来平家没官領など、討伐された謀反人の所領に設置される職であった。地頭設置の対象範囲(=旧領主の謀反人認定基準)は不明確であり、文治勅許後の文治年間(1185-90)には設置を巡る公武間の紛議が頻発した。
この点に関して、文治勅許の担った歴史的役割が議論され続けているわけである。
国地頭説
1960年代、文治勅許は鎌倉時代に一般的だった大犯三ヶ条を職務とする守護、荘園・国衙領に設置された地頭ではなく、段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権・国内武士の動員権など強大な権限を持つ国地頭の設置を鎌倉幕府に認めたものとする説が、石母田正を中心に提起されたが、近年それを覆す研究成果も出現しており、文治勅許論は尚定説を見ない。