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湯浅宗光

ゆあさむねみつ

湯浅 宗光(ゆあさ むねみつ)は、鎌倉時代の武士、紀伊の在地領主・湯浅氏の分家・保田氏の祖。

概要

プロフィール

活動時期鎌倉時代
性別男性
生没年不明
出身地紀伊湯浅
官位左衛門尉
親族父:湯浅宗重子:湯浅宗業

湯浅氏について

湯浅氏平安時代後期、平家家人であり、1185(文治元)年壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した後も、平重盛の息子平忠房の身柄を匿い、鎌倉方に抵抗した。

翌1186(文治2)年、鎌倉幕府に降って御家人となり、本領を安堵される。

その際守護による催促を免ぜられ(文治二年源頼朝下文案:崎山家文書)、京都守護一条能保の差配に従う旨を命ぜられた。

経歴

京都守護の関係もあり、湯浅氏は京の寺社と関係が深く、特に神護寺には多くに湯浅氏出身者が帰依し、文覚明恵との交流もあった。

宗光も1197(建久8)年、文覚より紀伊阿氐河荘下司職を譲られ、1210(承元4)年2月、幕府より相伝の職として阿氐河荘の地頭職を安堵された。

1219(承久元)年8月、熊野神人に訴えられ対馬に流されたが、その所領は子の宗業に安堵され、2年後赦されて紀伊に戻り、保田荘の地頭職を安堵され、以降、保田氏を名乗るようになる。

功績・評価

宗重の庶子でありながら、保田氏が湯浅一族の主導的立場に立つ基礎を築いた。

別名・表記ゆれ

左衛門尉七郎宗光

保田宗光

この記事のカテゴリ

キャラクター・人名 日本史 歴史

湯浅宗光の編集履歴2023/05/28 16:14:37 版