概要
天正7年(1579年)11月7日、毛利元就四男・穂井田元清の長男として生まれる。
天正13年(1585年)に子供のいなかった従兄・毛利輝元の養子となるが、輝元が文禄4年10月18日(1595年11月19日)に側室の二の丸殿との間に実子の松寿丸(後の毛利秀就)を儲けると家督相続を固辞した。
文禄・慶長の役では伯父の小早川隆景、従兄の吉川広家らとともに活躍。
関ヶ原の戦いでは秀元自身には戦意があったものの、東軍に内通していた吉川広家に押し留められて戦うことはなかった。このとき出陣しないことを責められて苦し紛れに「弁当を食べさせている」と言ったことから「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。大坂城に帰還後は立花宗茂らとともに徹底抗戦を訴えたが、受け入れられなかった。
江戸時代には長府藩主として西の守りを任され、秀就時代の初期の執政だった。しかし輝元が亡くなってからは秀就との関係が悪化したため、江戸に住み徳川家光の御伽衆となった。
逸話
- 腕力が強く、碁盤の上に人を立たせてそれを両手で持ち上げることができた。
- 小早川隆景は秀元を器量に優れ、父元就に似ていると述べていた。
- 江戸城に出仕した際弁当に鮭の切り身を入れていた所、そのような「高価で珍しい魚」を羨ましがった諸大名が秀元に群がり、ほとんどを奪われてしまったという逸話がある。