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毛利秀元の編集履歴2024/05/04 05:32:36 版
編集者:タタキ
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生没年 1579(天正7)年~1650(慶安3)年

官位 正三位 参議

毛利元就の四男・穂井田元清の長男として生まれる。

概要

天正13(1585)年に子供のいなかった毛利本家当主の従兄・毛利輝元の養子となるが、輝元が1595(文禄4)年に側室の二の丸殿との間に実子の松寿丸(後の毛利秀就)を儲けると家督相続を固辞し、1599(慶長4)年に長門などで18万石を与えられ独立大名となった。

文禄・慶長の役では伯父の小早川隆景、従兄の吉川広家らとともに活躍。

関ヶ原の戦いでは秀元自身には戦意があったものの、東軍に内通していた吉川広家に押し留められて戦うことはなかった。このとき出陣しないことを責められて苦し紛れに「弁当を食べさせている」と言ったことから「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。大坂城に帰還後は立花宗茂らとともに徹底抗戦を訴えたが、受け入れられなかった。

江戸時代には長府藩(山口県下関市)6万石の領主として西の守りを任され、広家らが引退した後は秀就時代の初期の執政を勤めた。しかし輝元が亡くなってからは、秀就との関係が悪化したため長州藩からの独立を画策したが、幕府の仲裁の後江戸に住み徳川家光の御伽衆となった。

長府藩はその後幕末まで続き、明治維新後は子爵に叙された。また秀元の長男・光広の孫・吉元は長州藩第5代、次男・元知の孫・重就は第7代藩主となった。

逸話

  • 腕力が強く、碁盤の上に人を立たせてそれを両手で持ち上げることができた。
  • 小早川隆景は秀元を器量に優れ、父元就に似ていると述べていた。
  • 江戸城に出仕した際弁当に鮭の切り身を入れていた所、そのような「高価で珍しい魚」を羨ましがった諸大名が秀元に群がり、ほとんどを奪われてしまったという逸話がある。
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