徽宗
きそう
経歴
兄の哲宗に息子がおらず、しかも早死にしたため、徽宗が皇帝になった。
治世当初は、芸術への情熱を抑えて当時の官僚同士の政争(新法・旧法の争い)を何とかしようとしたが、うまくいかなかった。
そのうちに新法派の蔡京を趣味が合うという理由で重用するようになり、徽宗は政務への情熱を失っていく。蔡京は反対する官僚は旧法派・新法派を問わず政界から追い出して、徽宗の機嫌を取るために重税を民衆から搾り取った。とはいっても徽宗も蔡京の暴走を快くは思っておらず、左遷や閑職に追いやるなどして、次第に権力をそいでいった。しかし、蔡京以外の徽宗の側近も、似たような傾向のろくでもない人物が多く、その悪政ぶりは未来に「水滸伝」の元ネタにされている。高俅もそれらの側近の一員だが、その中でもまだ小粒だというのが現実の恐ろしさ(高俅は徽宗が帝位を失った後に弾劾された蔡京や童貫を始めとした奸臣達、通称【六賊】には含まれていない)。
そんな末期的な状況の宋だったが、北方の強敵だった遼はそこにつけ込むどころではないほど弱体化していた。そこで徽宗はいらん欲を出し、遼の北東の金と手を組んで遼を滅ぼそうという野心を抱く。
しかし宋の弱体な軍隊は、滅亡寸前の遼の軍隊にすらぼろ負けする始末で、やっと手に入れた遼の旧領は金の軍隊が略奪した後だった。
そんな状態でなぜそんな事を考えるのか、もはや理解の範疇外だが、徽宗は金が支配下に置いた地域まで欲を出し、遼の生き残りとともに金を攻撃しようとする。
そして金の軍隊が攻め寄せると息子の桓(欽宗)に譲位して、側近達を連れて開封から逃げ出す。
あまりの醜態に頭に来たであろう欽宗は徽宗を連れ戻し、側近達を処刑した。
金の軍隊が開封を陥落させた際に徽宗は捕まり、金の領内のはるか北方に幽閉され、そのまま一生を終えた。
後宮の100人を超える妻妾、欽宗を含め30人を超える息子、30人を超える娘の殆どもともに捕まり、妻妾と娘達のほとんどは鬼畜系エロゲさながらの末路をたどったという。
その子孫は金の領内で軟禁されていたが、海陵王により男性は皆殺しにされたという。南宋を再興した高宗(欽宗の弟)も息子が早世したため遠縁の親族を養子にして、徽宗の男系末裔は断絶している。
「宋史」の編纂に関わったトクトによる評価は、「何でもできたが、君主だけはできなかった」という的確なものであった。
より詳しくは、Wikipedia「徽宗」やWikipedia中国語版「宋徽宗」などへ。