ことの始まり
1982年3月、アルゼンチンは以前より領有権を主張していた南大西洋に位置するイギリス領フォークランド諸島に軍を侵攻させ、ここを占領し領有を宣言した。これを受け、イギリス軍は時のイギリス首相マーガレット・サッチャーの一声でフォークランド諸島を奪還すべく、4月初頭より本国から軽空母2隻を主力とする機動艦隊を派遣。ここにフォークランド紛争が勃発する。
さて、フォークランド諸島にはグース・グリーン島、ペブル島など数か所に飛行場が存在するが、舗装整備され、なおかつジェット機の発着まで可能な長距離の滑走路を持つ飛行場は島都、ポート・スタンリーにのみ存在した。イギリス軍はこの飛行場を叩くことで敵の迎撃能力を奪い、またアルゼンチン本国からの空輸補給路を断つべく、戦略爆撃機「バルカン」と空中給油機「ヴィクター」を用いた空爆作戦を立案した。これが後の歴史に大きな名を残すことになるブラック・バック作戦である。
作戦の行程
とは言うもののフォークランド諸島に一番近いイギリス空軍の飛行場である、イギリス領アセンション島のワイドアウェーク基地はフォークランド諸島より約6000km北東に位置している。それに対し、バルカンの航続距離は4000kmちょっとしかない。当然片道切符で行くわけにもいかないため空中給油は必須なのだが、肝心の空中給油機であるヴィクターの航続距離は3700km程度ともっと短かった。とてもじゃないがこれじゃあ爆弾を落とす前にガス欠で力尽きてしまう。
ではどうしたか……?
答えは、2機のバルカン(1機は予備機)に対して3機の予備機を含む15機のヴィクターを飛ばしてバケツリレーならぬ空中給油リレーで燃料を食い繋ぎフォークランド諸島まで向かうという英国面マシマシな方法である。計画では往路7回、帰路1回の給油を行って食い繋ぐつもりだったらしい。
この作戦の為にパイロット達は空中給油の猛訓練を行い、長距離飛行に対応する為わざわざバルカンの慣性航法装置を改良した。それほどフォークランド諸島を奪還したかったのだろう。
作戦は7回行われ、うち5回が成功している。
第一次作戦
ブラック・バック作戦の1回目は4月30日に開始されたが、その道のりは険しいものだった。
作戦を実行すべくバルカンとヴィクター計17機は離陸し、フォークランド諸島に進路を向けたはいいものの直後にヴィクターの1機が空中給油装置に不具合が見つかり帰還。続いてバルカンの作戦担当機が予定の高度9500mへ上昇中にキャビンの与圧が効かないことが分かり帰還するという初っ端からかなりグダグダな状態で作戦はスタート。ちなみに帰還した分の埋め合わせは予備機が担当することになった。
その後しばらくは計画通りにことが進んだものの、4回目の給油でヴィクター同士が給油する際、燃料を受け取ろうとしたヴィクター1機の空中受油装置が乱気流で破損するというアクシデントに見舞われる。この破損したヴィクターはバルカンに5回目の給油の為に随伴する予定の給油機だったため、ここで帰還する予定だった機と役割を交代すべく燃料を移し、帰還した。だが、これらのアクシデントや飛行方法によってヴィクターは作戦に利用する燃料が当初の計画より大幅に消費されてしまい、最後のヴィクターが5回目の給油をバルカンに行った時には給油を担当したヴィクター、バルカン共に当初の予定より帰還分の燃料が不足していた。これらは帰還時に給油機を増やすことで解決している。
翌朝、バルカンは降下してレーダー網を掻い潜り対空機関砲の捕捉もかわして爆弾21発を投下、離脱した。バルカンに被害はなくブラジル沖合上空で待ち受けていたヴィクターから給油し、同日午後に無事にアセンション島へ帰還した。
戦果は4発が空港施設周辺に命中、その内の1発は滑走路に命中。飛行場に駐機していたプカラ攻撃機数機が破損した他、20名弱のアルゼンチン兵が戦死したが、空港施設を機能不全に追い込むほどの損害は与えられておらず、輸送にはSTOL性能の高いC-130などが使われていた為補給路を断つこともできなかった。
第二次作戦
一次作戦の3日後深夜に開始。前回の反省から編隊と給油方法が変更され、極力燃料消費を抑えるやり方が採られた。特に大きな問題に見舞われることはなく無事空爆を行ったが爆弾は全部外れ、飛行場に被害を与えることはできなかった。
第三次作戦は悪天候の為中止されている。
第四次作戦
攻撃目標が飛行場から、飛行場に設置された早期警戒レーダーや、対空機関砲の射撃統制に用いられる射撃統制レーダーなどに切り替えられた。これはフォークランド諸島に展開していた機動部隊に属し、アルゼンチン軍の航空機に対しての要撃や対地攻撃を行っていたイギリス軍の航空部隊が対空機関砲により損害が出ていた為である。
攻撃には米軍から供給された「シュライク」対レーダーミサイルを用いるものだったが(もちろんバルカンには対応改修を実施している)、ヴィクターの空中給油ホース格納器の故障で、出撃から5時間で中止に。
第五次作戦
第四次作戦のリベンジ。一次、二次作戦と同様に低空からバルカンはフォークランド諸島に接近。アルゼンチン軍の対空機関砲の射程外である高度約4900mまで上昇し、レーダーをかく乱させる為のチャフを散布しながら標的であるレーダー設備の探索を行った。ちなみにこの時、民家近辺に設置されたレーダー施設への攻撃は民間人への被害を防ぐために禁止されていたが、それ以外のレーダー施設は自由に選んで攻撃してよいという命令が下っていたため、目標の選択に飛行場上空で若干留まることになった。
その後、ある早期警戒レーダーに目標を定め、シュライク2発を連続発射したがこれを察知したアルゼンチン軍はレーダーを切り、途中でミサイルの誘導が効かなくなった(シュライクに限らず、対レーダーミサイルは目標のレーダー波を捉えその発信源に誘導されるパッシブレーダー誘導を採用しているため為、目標にレーダーを切られると誘導ができない。現在は慣性誘導装置やGPSなどによる補助によってこの欠点の解消が図られている)。そのためレーダー施設に命中せず、ほとんど損害は与えられなかった。
第六次作戦
バルカンのパイロンを2基増設し、対レーダーミサイルを4発に増やして開始。第五次作戦と同様にバルカンは低空からフォークランド諸島に接近した後、約4900mまで上昇後、攻撃に移ろうとしたが、レーダーに捕捉され回避運動を行いながら40分近く上空に留まった。だが燃料の都合からこれ以上長くは上空には留まれず、攻撃を敢行すべくミサイルの有効射程である高度3000mまで降下する。その際アルゼンチン軍の射撃統制レーダーにロックオンされ、対空砲火を受けるが回避。ミサイル2発を発射しレーダー施設の破壊に成功した。が、帰還用の燃料を給油しようした際にバルカンの受油プローブが破損して給油ができなくなり、アセンション島への帰還が不可能になってしまう。
バルカンは止むを得ずブラジル・リオデジャネイロのアントニオ・カルロス・ジョビン国際空港へ緊急着陸を試みるべく、航続距離を稼ぐために1万2000mまで上昇して同空港に向かいつつ、作戦指示書などの機密書類とパイロンに残っていた2発のシュライクミサイルの海上投棄を試みた(当時ブラジルはアルゼンチン寄りの中立だった為作戦計画が漏れると色々とまずかった)。だが今度は残っていたミサイル1発がパイロンから離れないという問題が発生。結局1発のミサイルを残したまま空港に緊急着陸することになった。乗員は即時帰国を許されたものの機体は許可が降りなかった為ブラジル政府とイギリス政府の交渉の間、乗員はブラジル軍の監視の下空港と軍施設にて抑留された。
結局、機体をブラジル軍に弄くり回されることなく1週間後には帰国許可が降り無事アセンション島へ帰還したが、パイロンに残ったままだったミサイル1発は没収された。
第七次作戦
この作戦ではそれまでの飛行場攻撃やレーダー攻撃ではなく、ポート・スタンレーへ侵攻中だったイギリス陸軍地上部隊を支援するためのアルゼンチン軍陣地攻撃が目的とされた。陣地攻撃用の空中炸裂型爆弾21発を搭載したバルカンはポート・スタンレー南部のアルゼンチン軍陣地を空爆し、任務を果たして帰還した。
この2日後、フォークランド諸島のアルゼンチン軍は降伏し、フォークランド紛争は終結した。
で、結局この作戦の持つ意味って?
1機の爆撃機をわざわざ6000km離れたフォークランド諸島に空中給油機十数機で食い繋いで持っていくとかいう非効率もいいところのこの作戦だが、実は爆撃による戦果自体はそれほど重要視されていなかった。このブラック・バック作戦は内外に対して「例え戦略爆撃機を遠く離れた島から飛ばしてでも絶対にフォークランド諸島を奪還する」というイギリスの強い意志を示すのが、この作戦にこめられた最大の意味である。
また、アルゼンチンに対してイギリスの本気を見せつける意味合いもあったとされる。遠く離れた島からフォークランド諸島を“何度も”空爆することによって「重爆がフォークランド諸島に届くならアルゼンチン本土、はてはブエノスアイレスにも届く。その気になれば本土空爆だってできる」という疑念をアルゼンチンに抱かせ、無言の圧力をかけた。その上、この時代ではSLBMへの移管により任を解かれていたとはいえ、バルカンは戦略核攻撃を行う機体であったし、低空侵攻による戦術核攻撃用の機体としては未だ現役だった。
「戦闘機を本土に呼び戻せ!」
フォークランド諸島と本土なら当たり前だけど本土の方が大事に決まっている。前線で戦うべきアルゼンチン空軍の戦闘機(ミラージュⅢなど)は本土防衛に回され、フォークランドに振り向ける航空戦力は少なからず減少した。そのため、これ以降イギリス軍の艦隊や地上部隊を攻撃するべく投入されたアルゼンチン軍の攻撃機は、護衛戦闘機なしでその任に投入されることとなり、航空戦ではイギリス側が航空優勢確保までは至らなかったものの、ほぼイギリスが一方的に優勢となった。
英国面と侮るなかれ、非効率な作戦ではあったがブラック・バック作戦がフォークランド紛争において大きな役割を果たしたのは、紛れもない事実なのである。